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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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三木さんのホームページは、プロ級だけど……


いつも拝見をする三木さんのホームページ。

http://www.dededen.mikosi.com/

不思議なのは、文字の小さいことである。
そこで、メニューバーの「表示」、「文字のサイズ」、「最大」とする。

いつも思うのであるが、企業のホームページなども文字の小さいものが多い。画面に多くの情報を入れたいためであろう。また、小さい文字が常識と考えているのだろう。
文字を最初から大きくしても、格納をするのに必要な場所は同じ。
「日本には老人が少ないので、文字はうんと小さくするべきだ」と考える人たちが、多いのかもしれない。少なくとも、ホームページを作成しているプロの中には。

そして、その中には、「文字のサイズ」をやっても、でかくならないものさえある始末。私は、そんなものは見ない。すぐに、やめてしまうんだ。情報を収集することよりも、ずっと自分の目のほうが大切であるから。

私は、イエスが福音書で言っているように、「正しく物を見れない目ならくり抜いて捨てたほうがよい」とまでは、思わないのである。

文字が小さいのは、日本人のさもしい考え方からだろう。
日本人は、もしかしたら世界一目のよい民族かもしれない。眼鏡をかけている人も少ないし、視力の悪い人もめったにいない。

昭和初期に外国人たちが、日本人は「目が悪く、眼鏡をかけている人が多い」などと言って驚いたのは、間違いであったのかもしれない。

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身体(しんたい)が失調をして、嚔(くさめ)など出る。


手術は順調にすんだものの、退院をしてから次第にホメオスタシスが効きにくくなってしまったみたい。

ちょっとした拍子に、「くしゃん」ときて風邪気味になる。鼻水が出たり、反対に鼻が詰まったりするんだ。

しかし、重度な症状ではない。
だからと言って、バカにしてはいけないだろう。
小さい不調が、大きな病気につながる場合があるから。

とにかく、体調を整えて健康体に戻すことが先決である。
でも、私にできることと言えば

rikの自然療法(含む漢方薬と薬用酒)

くらいのことかもしれない。
考えて、何とか工夫、五七七する。


次々と五七七を作って、書き留めます。
そのときに、あなたは「こんなことをして何になるのか?」などと考えてはいけません。

そもそも、五七七は「生きている証明」なのですから。
だって、呼吸をするときにいちいち「呼吸などを何のためにしているか?」などとは考えないでしょう。

五七七は、あなたの生活の一部だと考えてください。
おそらく、それがあるために日々の生き甲斐を見つけたり、再発見を記録したりできるからです。
そして、それがさらに次のステップにつながるのです。

下手な子の弾くピアノ、美に遠く五月蠅い(うるさい)。


そんなもんでしょう。
しかし、弾いている子どもは違います。一所懸命練習をしているのです。その過程ですから、五月蠅くても仕方ありません。

何でも、最初のうちは美に遠いようです。
この五七七なども、まったく無意味のように見えるでしょう。

それこそ、いくら作っても五月(さつき)の蠅(はえ)でしかありません。しかし、そんなことはどうでもよろしい。
六月の蚊でも、七月のゴキブリでもかまいません。

子どもがピアノでバイエルやチェルニーなどを練習していると、この五七七のことと「美」について考えてしまうのです。

何となく生きてる記録、書き連ねゆく。


五七七は、まぁそんなもんじゃないでしょうか?
つまり、「生きている証明」であり「生きている記録」なんです。

別に、理屈はありません。
『ヨハネの福音書』に、「はじめに言葉あり」とあります。
続いて、「言葉は神とともにあって、神自体なのだ」とまで言い切ります。

言葉は、物を考えるのに必要なツールでもあります。
したがって、語彙(ごい)をたくさん知らない人たち、例えば子どもたちは複雑なことを考えることができません。

五七七は、大げさに言うと自分の次元を神に近づける修練と言ってもよいでしょう。
火の玉の先生よりも、宜保愛子(ぎぼあいこ)さん。


私は、小太りの火の玉の先生よりも、むしろ宜保愛子さんの言っていることのほうが何となく正しいと思う。

小賢しい(こざかしい)学問による理屈よりも、人間のもつ本能のほうを信じるというのである。
また、「証明ができないことも多くある」ということを知らなければならない。
学問が片手落ちであることは、過去の歴史から明白。
そんなことを学者は忘れてはいけない。もしも、忘れていれば、それは何とも恥ずかしいことである。

あなたは、いかがですか?
ペロリンと消える怖(こわ)さにページをコピる。


何かの拍子に、すでにインプットしたデータが消えてしまう。
おそらく、誤操作が原因であろう。
しかし、長文をようやくインプットしたような場合は、がっくりしてしまう。

そこで、こまめにセーブをする。本文をバックアップしたり、コピーをするのである。

ちょっと、物をなくすことを心配して予備をもっているのと同じ感じ。
やはり、安心して作業ができる環境であってほしい。

火事などは絶対に起こらないと考えれば、火災保険などは不要になると早合点するのと同じことであろう。
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