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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ときどきは、裸になって清拭をする。

どうしても、身体は垢などで汚れて臭(くさ)くなる。清拭(せいしき)とは、病人などの身体(からだ)をタオルなどでふいてきれいにすること。清拭き(きよぶき)という言葉もあるが、それは濡(ぬ)れた布でふいたあとで、仕上げとして乾いた布でふくこと。私は、ときどき清拭をして肌着をかえる。そうすると、とても気持ちがよい。夏はシャワーなどをするが、冬は清拭ですますことが多い。まっ裸になってするのであるが、健康にもよいらしい。
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この記事は、自分自身の知的空間。

こんな幼稚な『日々記憶の断片』であるが、自分自身にとっては一つの知的空間である。毎日、記録をすることによって、そのまま「生きている証明」にもなる。内容が哲学的に優れているとか、科学的に論理付けられているなどということは、気にしなくていい。とっぴな考えでも、かまわない。とどのつまり、がんばってみても、それが自分なのであるから、あまり他人の目を意識する必要はないのである。
陰湿ないじめは脳の欠陥による。

脳の欠陥といおうか、本来の不健全な特性がもたらしたものらしい。鶏などを放し飼いにするときに、一匹だけをいじめの対象としておく。すると、どの鶏も突(つつ)くので、毛が抜けてしまう。楳図かずお『まことちゃん』に、美香ちゃんが美人コンテストに出る話があった。誰かが「あの小さいのは何ですか?」と聞くと、解説者が「独りだけ変なのを入れておくと、他が張り切るのです」と答える。人間の脳は、そんな程度のものらしい。

脳自体、自己を見つめる機能があるか?

いったい脳自体は、自分自身を見つめる機能をもっているのだろうか。何となく得体の知れない脳ではあるが、やはり人間の一部であることには変わりない。白血球やミトコンドリアなどよりも、かなり複雑であるので一種の寄生・共同体などと考えるのはムリであるだろう。学問的に、いろいろなことが判明しているので、脳が寄生体などと言うとバカにされてしまう。脳の手術をするときに、麻酔などは必要でなく、ザックリと切っても痛くないらしい。
重心がとれなくなって、転ぶことあり。

なぜだろうか? ふとしたはずみに、身体の重心が取れなくなって、フラフラとしたり、転ぶことがある。つまり、身体のバランスが取れない。そして、転んでしまう。自分でも、その状態は自覚している。ヨロヨロとして、そのまま立っておれないのである。そんなことは、今までになかった。もしかしたら、脳や平衡感覚(回転加速度)を司る三半規管(さんはんきかん)の故障かもしれない。人生も齢七十歳になると、いろいろなところが次々と故障するようだ。
人が死ぬことは、いったい何であろうか?

いわゆる人が死ぬということは、いったい何を意味することであろうか。脳が機能をしなくなったら、すべてが終わって死んだことになるのだろうか。それにしても、宗教の多くがそれと反対のことを言っている。私は、まだ医学的に脳自体を解明しきっていないようにも思う。そして、私は「もしかしたら脳はヒトに寄生をした別の生命体ではないか」とさえ考える。さらに、どうやらダーウインの進化論とは別な人間の進化があったのではないかとさえ疑うのである。
人生は、何のため生き、死ねばどうなる?

素朴な疑問ではあるが、私たちの人生は何のためにあるのだろう? 人生は、生きるためにあると言ったら、同義反復( トートロジー Tautology)のそしりを免れない。しかし、もともと生命は生きているので、それ自体が自然なのである。生きる目的とか、将来どうなるかなどというようなことは脳がもたらした幻影。出世しようと考えるのは価値観や教育の結果だと思う。私は、ただ健康で日々心地よく生きて、安らかに死ねばよいと思う。
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