忍者ブログ
rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
ブログ内検索
ご案内


現在、このプログではコメントなどを受け付けていません。
お恥ずかしい個人的な内容が多いからです。それでももしも、ご意見やご質問があればここから願います。


似顔説明

[346]  [347]  [348]  [349]  [350]  [351]  [352]  [353]  [354]  [355]  [356
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「巧言令色少なし仁」などと言う。

『論語』にある言葉。
「言葉上手で愛想よしは、人格者ではなく、信頼できない」というような意味であろう。私は、礼儀やエチケットを知らない人と付き合っても、意味がないと父から教えられた。

また、恥や外聞をいっこうに気にしない日本の政治家などよりも、「天知る、地知る、我が身知る」と言って自分を諫(いさ)めた中国の政治家を学ぶべきだと思う。

『仏教聖典』にも、

<言葉だけ美しくて、実行の伴わないのは、色があっても香りのない花のようなものだ。>

とある。

なお、不思議なことに、『論語』にはまったく同じ文章で「学而第一」と「陽貨第十七」の二ヶ所に出ている。おそらく、編者の間違いではなく、非常に大切な言葉だから最初のほうと、最後に近いところに重複させたのかもしれない。
PR
心の目で見るシュールリアリズムの絵。


正直言って、ミロやカデンスキーの絵を初めて見たときには驚いた。
そして芸術にも、ずいぶんスパンがあるものだと私はつくづくと思った。

ふつうには見えない、だから心の目で見るんじゃないか。
エルキュール=ポワロの中に、

<現実の世界よりも、作中の人物のほうが現実に思えてくる。>

というくだりがあったように思う。
そして、何となくドン=キホーテを思い出したりもするんだ。

カデンスキーは、「音を聞くと、色が見える」と言ったらしい。
私は、色の中にも、音があると思う。いずれも波長であって、ただそれらを感じる器官が違うだけかもしれない。



この世にも、オーケストラの調和が必要!


適者生存とか弱肉強食などという言葉もあるようですが、全体が調和していることが、この人間社会には必要ではないでしょうか。

それは、オーケストラが奏でる交響曲のようなものです。
例えば、ラッパが目立ちたいので大きな音を出したらどうでしょう。また、ティンパニーが思いついたところで、楽譜に書いていないのに勝手に鳴ったら困るでしょう。

むろん、フォルテッシモで鳴るときもあります。
しかし、それは全体のバランスの上に、指揮者が考えているように、その楽器が鳴っているのです。

そして、指揮者は全体の調和を常に考えているのではないでしょうか。
もしも、指揮者がいなかったら、てんでにばらばらになりがちです。

目の不便、極端に言うと慣れの問題?


本当でしょうか?
私は、糖尿病から自分がめしいてしまう場合のことを心配しています。

塙保己一(はなわほきいち)とう大学者は、盲目でしたがたくさんの弟子がいました。ある日、講義をしていて停電をしたか、蝋燭(ろうそく)が消えたかして、真っ暗になったので皆があわてました。

そのとき、塙保己一先生の言った言葉。

<目が見えるというのは、何とも不便なものだなぁ~>

私は、唐木田の福祉センターから帰るときに、盲目の人を弦巻までガイドすることがあります。その人は、

<生まれつき目の見えない人は、不便を感じないらしい。事故や病気で失明した人は、ものすごく不便だ。>

と言いました。
その人は、還暦を過ぎてから糖尿病が原因で失明をしたそうです。

目の構造自体も、考えてみるとまったく不思議ですね。

「楽あれば苦あり」「知らぬが仏」とも言う。


例えば、フランスのルイ十四世です。
「朕(ちん)は国家なり」と言い、自分を不滅と信じて「太陽王」と名乗ったそうです。

しかし、リリー運河などに莫大な費用をかけたので、フランス革命となって、自ら(みずから)アウトになっちゃいました。

私は、なぜか凱旋門や300メートルもあるエッフェル塔を見ると、そのことを思い出します。
また、

<朕が死んだ後なら、大洪水が来てもへっちゃら。何のその。>

と言ったということをどこかで読んだようにも思います。

「金持ちのままで死ぬのは恥」という人。


その人は、カーネギーです。
成功の本を書いたデール=カーネギーではなく、いわゆる鉄鋼王のカーネギーです。

ぜんぜん違うことですが、私はコンピュータ将棋をときどきします。
そして、負けたときはたいがい多くの持ち駒が残っています。
例えば、飛車・角行・金(きん)・銀が二枚、そして桂馬や香車が二・三枚。そんなときは、何のために駒を持っていたのかを悔やみます。

金(かね)は、使うためにあるのでしょう。
金(かね)は生きるために必要ですが、金のために生きているのではありません。
カーネギーほどの金持が、「恥」とまで言ったのは流石(さすが)と思います。

聖書には、私の理解、超えるものあり。


全般的に厳か(おごそか)ではあるが、私には意味不明な箇所や、理解ができない部分が多すぎます。

そこで、いくつかの書を写して、コメントしてみたのですが、……

例えば、『第二法の書(申命記)』には

<近親相姦の子が悪魔となって、この世を終わらせるであろう。>

とあります。

本当でしょうか。
すでに、悪魔になったのでしょうか。
わからないことばかりです。

忍者ブログ [PR]