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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ハコテンになったみたいな私の生きざま。


麻雀のハコテンです。つまり、最初の持ち点がなくなってしまい、さらにマイナスになった場合。破産をした状態に似ています。そうなると、この半チャンを終えて、次回で取り返そうとするのです。

ちょうど勝負に負け越して、やけになって「もう一丁」「もう一丁」と続けるのと同じです。いままでの回に負けたので、新たな次回を期待するわけですが、なかなかそうなりません。ますます借金が増えてしまうこともあるのです。

自分の無能力と努力不足のために、正直言って今までの生きざまは大きな負け越しです。大声で叫びたくなるような衝動にかられますが、人の一生は次の半チャンというようにはいきません。現時点での負け越しを次の勝負で取り返すなどということが不可能なのです。やはり自分の力量が、不足をしていたことは否めません。仕方のないことです。
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もう何も面倒くさい、衰えたのか?


最近になって何をするのも面倒くさく感じることがある。そもそも「面倒くさい」などということは、今までにはあまりなかった。

つまり、億劫なのである。身体が追いついていかないのかもしれない。身体と言うよりも、気持ちの問題。「やる気を失った」という感じ。

人生も古稀を過ぎると、身体が衰えてしまう。そして、精神的にも気力を失ってしまいがち。ウルマンの詩のように、いつまでも若々しい人はいるのだが、……。(ウルマンの詩には、BGMが付いています。)
恥ずかしい人間ゆえに、人前に出ぬ。


この歳になって考えてみるに、あまり輝かしい実績もないし、誇れるような仕事もしていない。そんなわけで、かつて親しかった人たちと会ったりするのは億劫になる。同窓会なども連絡が来るが、すべて欠席。正直に「今のところ、人前に出られる状態でない」と書くと、心配して問い合わせが来たりする。

実際に言葉通りの意味であるが、旧友は私が病気になっていると心配をしてくれるらしい。かつて、あれほど元気だったのに、いったいどこが悪いかなどと聞いてくる。

そんなわけで、いつも閉口をするのであるが、とにかく人とは会わなくなった。そして、新たな知人を作ったりすることなどは、よほどのことでない限り、なくなってしまった。
グーグルで、魚籃観音探す雨の日。


私は、魚籃観音が大好きである。あまり遠くへは行けないが、見に行ったところについては、『魚籃観音の研究』というレポートを作っている。範囲は、東京都内とせいぜい近県。

しかし、雨の日には外出ができない。そこで、ひねもすグーグルで魚籃観音のまします場所を探す。しかし、最近では自分自身の記事が多くなってしまって、なかなか新しい場所が見つからない。いきおい、だらだらと効率の悪い作業になる。

それでも、こつこつと調べていく。他人のホームページやブログを見ることも、いろいろと勉強になって面白い。また、ひょっとして新しい出会いのあることがある。そんなことで、雨の日も楽しい一日が過ぎる。
楽しみは、久々に来る友からのメール。


お互いに事情がいろいろあって、連絡が久しく途絶えていた友がいる。病気になったり、仕事の都合でそうなってしまったのかもしれない。

そんな友から、久々にメールが来る。何ともなつかしい気持ちがする。私は、あまり友達が多くない。そんなために、その感激がひとしお。

『論語』に、<朋(とも)あり、遠方より来たる、亦楽しからずや。>とある。冒頭の二つ目の文である。おそらく、私もそのような気持ちになっている。しかし、その後にある<人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。>の境地には、なかなかなれない。
結局は人生の意味、解らずじまい。


古希を迎えて、いろいろと考えてみた。このままでは、人生の意味も、とどのつまり解らずじまいで、終わってしまうらしい。何とも情けないことである。

そこで、間違っていてもいいから、自分が納得する内容で考えることにした。それも、科学的な証明をすることなしに、直感で決めてよい。すると、意外なことがわかった次第。

結局は、人生のもつ意味など最初からないのではないか。立身出世をする、金儲けをする、社会に貢献をする、……。しかし、人生があって考えるので、考えたから人生があるのではない。ただ、その瞬間をまさに生きているということが大切。そして死んだらどうなるかということも、まさしく一大事である。
どうしても、さるぼぼを見た場所、思い出せぬ。


京王線沿線のどこかの駅から歩いていたとき、小さい祠の中にさるぼぼがたくさん糸で吊してあった。それが、どこか思い出せないのである。Windowキーで「人形」「糸で吊した」「祠」などとしても出てこない。「さるぼぼ」という言葉は、まだ知らなかったときだから、むろんダメ。

飛騨弁では、赤ちゃんのことを「ぼぼ」と言う。だから「さるぼぼ」は「猿の赤ん坊」という意味。災いが去る(猿)ということで、お守りなどとされる。基本的な形は、赤い体に赤くて丸い顔。目と鼻と口は省かれている。そして、赤い手足。黒い頭巾と黒い腹掛け。

それが糸に吊されて数多くあったのが印象的。そして、この「さるぼぼ」という言葉を添えようとして探したのだが、まだ見つからない。どこかの野辺にあった小さい祠の中であったことは、はっきり覚えているのだが、……。
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