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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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トマトの葉、食べたらなつかしき味がする。

私のところは、トマトやきゅうりなどの野菜を生産者から直接仕入れている。そのトマトには、「茎」というか「蔕(へた)」というか、それまでに果実を支えていた緑色の部分が、そのまま付いている。そこで、それをそのままよく噛んで食べる。かつて、子供のころに食べたなつかしい味と香りがする。そんなわけで、その部分が枯れていたり、汚れていないときは食べることにした。工夫をすると、それまでにない新しい味の発見があって楽しい。
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冬の日の手のささくれは、すでになくなる。

冬にしつこくできた手の指のささくれは、春になって治ってしまった。ささくれができるのは、親不孝のためだとも言う。もしかしたら、生前の父母に私が孝行していなかったのかもしれない。そんなことを思うと、父母が何となくなつかしく感じる。方丈記にも、父母に対する鴨長明の記述があった。彼ほどの独立心が強く、反社会性をもった人でも、ときには父母を恋うものかと、私が不思議に思ったくだりである。
今までに生かされていた自分が不思議。

おっちょこちょいな自分が、今日あるのが不思議。なぜならば、交通事故や大病気などにあわずに、いま何とか生きている。とっくに古稀を過ぎ、すでに七十四歳である。まさしく、そのこと自体「古来稀なり」なのであろう。むろん、寿命が長くなっているので、珍しいことではない。しかし、とくに通院をしたり、治療に通っていないのは自分でも、不思議。ただ、歯だけは治せないので、月に数回、歯石を除いてもらうために歯科医に通院しているが。
身の回り、不要なものはすべて廃却。

身の回りを見渡すと、不要なものがずいぶんあることに気付く。若いころだったら、何でも取っておいて後で何かの役に立つだろうと考えた。それが、古稀を過ぎたころから、何となくムダであると気付く。つまり、自分の生涯には関係のない事や物だと何となくわかるのである。そこで、不要なものは廃却をしてしまおうと思う。しかし、そうは言っても、まだ何がはっきりと不要であるかがわからない。そんなわけで、その作業は遅々として進まないのである。
何故か、恥の記憶に苦しめられる。

具体的には言えないが、過去にやった恥の記憶が次々と出てきて、苛(さいな)まれることがある。それは、あまり体調がよくないときなどに多い。人間の脳が、記憶を司っているので、脳のその部分が記憶を再現するらしい。そして、体調のよくないときに、そのようなことが多いというのは、何かのサインかもしれない。それはともかく私はそんなときに、いつもいたたまれない気持ちになってしまう。
何故に、こんなことしているのだろうか?

人生も終盤になって、よく思うことである。こんなことをしていて、いいのだろうか。そろそろお迎えがくる時期に、何とも呑気なことを考えている自分自身。日々やっていることは、若いころからの連続である。実際には信仰に入って、読経(どきょう)などを始める時期であろう。それが、信仰自体にも馴染めずに、いまだに無信仰である。いったい、死んだらどうなるかなどとは、さっぱり解らない。古稀をとっくに過ぎたのに、迂闊(うかつ)と言ってもよいだろう。
何故かこころの中に住み着く思い。

ちょっとしたことが、いつまでも忘れられない。それは、映画一本の全体というようなイメージではなく、その中に出てくる些細(ささい)な断片である。また、日常生活などでも、ほんの数分間のことである。むろん、その数分間を含む一日であることもあるが、思いとしては短い時間帯である。そして、そのような断片が、ときどき思い出される。それらは、自分にとってあまり愉快ではない記憶のことも多い。なぜであろうか。
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