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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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何となく疲れて、何もする気がしない。

季節の変わり目のためだろうか。何となく身体が疲れてしまって、何もする気がしない。つまり、気力がなくなってしまったのである。おそらく、糖尿病の末期症状と院内感染をした肝炎タイプの病気のせいであろう。とにかく、立っていてもフラフラとすることがある。立ちくらみ・ふらつき・よろめき、そして身体のバランスが取れなくなって、しゃがみ込んでしまうときもある。困ったことで、何とかしなければならない。
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村八分、その習慣も、いつしか失せた。

昔から「村八分」という習慣があった。村の者が、誰も相手にしない人たちである。つまり、爪弾(つまはじ)きにして、関わりになりたくない変人や罪人たち。もっとも、現在は村というような構成単位が、機能していないので、村八分など行われていないのでないか。八分はよそ者として扱い、二分は身内とする。つまり、火事と葬儀。しかし、現代は孤独死をしたり、脳に異常をきたして出火をする高齢者が増えてきたということだ。

自分とは、いったい何か? 閉じた空間。

自分とは、いったい何なのだろうか。ふつう、皮膚で閉ざされた一連の物質を考えている。そして、その物質に何を着せようか、食べさせようかなどと執着する。注意が向くし、関心がある。しかし、プラナリアを考えてみると、必ずしもどこまでが自分かわからない。プラナリアは、ヒルやサナダムシと同じ扁形動物。 再生力が非常に強く、細かく切っても2週間ほどで個々に再生する。つまり、どこまでが自分かわからないのである。
恐ろしい水に関する事実を知った。

最近になって、体内にある水に関して、恐ろしい事実を知った。それは、喉が渇いたときには、すでに脳血栓などの一歩手前であること。つまり、渇きを覚える前に補給をしなければならない。ヒトの体内の半分以上が水分であるから、当然なことかもしれない。それでは、どんな水を補給すればよいか。生水(湧水や地下水)、ペットボトル、ビールなど。ボトルなどは、煮沸されていることが問題。生ビールは良質な水を5パーセントのアルコールで消毒している。


義姉の骨、教会葬とすることになる。

本来ならば、義姉の骨が入る墓地に「いっしょに入れたくない」などと言う者がいて、困っていた。そんなときに、カトリック教会から、五日市の教会墓地に納骨を引き受けると言ってきた。そんな次第で、四月六日(土曜日)に遺骨と埋葬許可書、そしてお別れ金(五万円)を教会の人に依頼した。やれやれである。生前に兄弟たちとトラブルがあって、葬儀なども私と妻が出席しただけで、他の兄弟は最後まで姉のキリスト教を理解していなかったようだ。
何もかも面倒になり、疲れるばかり。

人生の一時期には、何をするのも面倒になって、身体が疲れてしまう時期がある。とくに、還暦を過ぎた高齢者の場合に多い。私は、還暦のころはまだまだ元気があったが、さすが古稀をすぎることから、気力を失ってしまうことが多くなった。気力はあっても、体力がない還暦以前の状態と比べて、何事も面倒になってしまう最近の状態は、困ったものである。何もかも面倒になり、疲れるばかり。億劫という仏教の言葉があるが、まさにその通りである。
人生の記憶をここに、残しておこう。

この『日々記憶の断片』のことである。今まで、ずいぶん長い間、書き綴ってきた。文学的な価値はないであろうが、自分自身のメモ帳としては、かなりの意味があるだろう。なぜならば、その都度思ったことを「記憶の断片」として、正直に綴ってきたからである。つまり、「新句(十九音)」という短詩形で綴った断章用プログなのである。俳句や短歌とも似ているが、文字数が少し異なっている新しい短詩形。私は、引き続き人生の思い出を残していきたい。


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