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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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思ったことをはっきりと言うことは、むずかしい。つい遠慮をしてしまったり、気まずくなることを恐れるからである。
渡邊五郎師は、自分自身の意見をはっきりと言う人である。医者の処方について等も、意見を言うらしい。また、電車の中でマナーの悪い若い人などにも、注意をするみたい。すばらしいことだと思う。
私は臆病で、自信がない。そんなわけで、言うべきことも言わずに済んでしまうことが多い。
相手があるときは、そのことが後になって、不都合になることもある。
今後は、注意をしていきたい。

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前の聖蹟桜ヶ丘駅前にあった聖蹟桜ヶ丘ビュータワーの家賃が払えなくなったので、同じ市の豊ヶ岡にある公団の賃貸住宅に引っ越した。月々の支払いを半分程度にするためである。
前のように駅から三分というわけにはいかないが、それでも公園に隣接した空気のよい場所。
また、市による無料のミニバスが利用できるので便利。例えば、エレベータで降りて、その前にあるバス停から四つ目の中央公園に天然温泉がある。週に二回ほど行くことがあるが、とても便利である。
また、永山駅や多摩センター駅までは、十停留所くらい、時間にして五分程度で行ける。
そんなために、引っ越したけれど、あまり不便を感じない。私と妻にとっては、ここも住めば都である。
身の回りのことが整理できないと、歎いても仕方がない。
何とかして、少しずつでもよいから、整理をしていこう。
考えてみれば、私も残る時間が、あまりないかもしれない。
寝込んでしまったり、認知症になってしまえば、もう何もできないからだ。
元気なうちに、少しずつでもよいから、何とかしなければならないようだ。
ここのところ、何となく身の回りの物を整理できない。最近はやっているゴミ屋敷になりそうで心配でもある。
何かをしようとしても、何となく疲れていて、精神力が足りない。つまり、飽きっぽくなってしまったのである。
すでに、古稀を過ぎたので、仕方のないことかもしれない。しかし、高齢になっても、そうでない人もいる。
下記にあるサムエル=ウルマンの『青春』という詩にあるようになりたいものである。
度忘れや勘違いなどは、かなり若いころからあった。しかし、恍惚の人に近い現象には、いまだならなかった。
最近になって、記憶の系統がおかしくなってきたみたい。
系統立てて、物事を思考できないときがあるからである。
単に呆けや度忘れで済まされない、アルツハイマー病や脳軟化症の症状が始まったのかもしれない。我ながら、困ったことである。
ここのところ、若かったころのことを、よく思い出す。身体が衰えてしまったためであろうか。
しかし、なぜであるかは解らないが、思い出には楽しいことよりも、不愉快なことが多い。
きっと、記憶に不愉快なことが多く残っているためかもしれない。
したがって、思い出にふけるのは、あまり楽しいことではない。
むしろ、いたたまれない気持ちになってしまう。
どうしたものだろうか?
足や手の関節が衰えてしまって、痛いときがある。ともすると、歩行にさえ支障を感じる。
もはや古稀を過ぎたので、仕方のないことかもしれない。
生老病死と言うように、老いてくると病気を患って、間もなく死ぬのだから、そのことは、四門出遊をしなくても何となくわかる。
それでは、どうすればよいのだろうか。老は避けられないが、病気にならないようにすればよい。身体の一部が衰えてしまって、ダメになりそうであったら、そこを補強する。
例えば、歩くときに杖をもったり、温泉でマッサージをしたりするとよいだろう。
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