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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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YouTube、それは一つの知的空間。


YouTubeを始めてから久しくなる。自作の未熟な動画をアップしてきた。いま現在で、118本の動画がある。他は、再生リスト460本、そして「お気に入り」と「後で見る」の仮保存ライブラリ若干。

すべて自作の動画であるから、問題は起こらなかった。しかし、ak4215part2さんのように、著作権の関係でアカウントが停止になってしまった人もいる。動画を他からコピーするときには、注意しなければならない。そんな意味で、私はすでにコピーされた動画を再生リストにする。しかし、その再生リストが著作権の関係で削除されてしまうことも多い。すると、私はその再生リストを削除するのである。

私の最多再生回数は、「バイエルの次に(12) やさしいラ・カンパネラ 【楽譜付き】で、今日現在で11,236 回である。このシステムを上手に使えば、知的空間の構築ツールになると思う。
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思いつくことを気ままに書き連ねゆく。


このプログは、大げさに「生きている証明」などと言う。しかし、単に「日々の慣(なら)わし」と考えてもよい。日単位の記述であるが、記憶の断片が残るので、備忘録やメモになっていたりする。

なぜ、ここで時間にこだわるのか。私たち生物は、時間を食べて生きているようにも思える。とくに人間社会では、すべてが時間によって動かされていく。そうは言っても、もともと時間などは存在をしないのかもしれない。私たちの活動や運動が、それの必要性をかもし出してだけにすぎないからである。

つまり、このプログはあまり堅苦しく考えないで、ただ思いつくことを気ままに書き連ねてゆけばよいのである。すると、時間の経過にともなった考え方の変化が保存される。
命がけ、人体テスト、結果はいかに?


恐怖の大実験とでも言おうか、いま命がけの人体テストをしている。つまり、
(1) 喉が渇かなければ、水を飲まない。
(2) 腹が減らなければ、食べ物を食べない。
(3) 塩(海の精)を多量に摂る。
(4) 眠くないときには寝ない。眠いときに眠る。
(5) とくに、運動はしない。その代わり、立ち居振る舞いをこまめにする。
のようなことを自分自身で行って、確かめてみようと思う。

とくに、減塩が叫ばれているときに、塩を多量に摂るということは、もしかしたら健康上とても都合の悪いことかもしれない。『徒然草』に里芋ばかり食べていて、自分勝手なことをしている僧の話があった。その僧は健康であったようであるが、病気になると里芋を食べて治してしまうとも書いてあった。

いわゆる「かかりつけ医」のような感じで、1ヶ月くらい近くの医院に通うつもりである。ただし、先生には「糖尿病と高血圧の自己管理」という名目でお願いをしようと思う。人体実験をしているなどということは、とくに言う必要はないだろう。その結果、身体の状態に不都合を生じたら、その都度説明をしたらよいのではないか。




秘書さんがくれたジュースは、ふくよかな味。


秘書さんがくださった赤色のジュース。薄めることなく、そのままで飲みなさいと言われた。そこでいただいた500mlを二分して、コップ一杯ずつを冷やして妻と二人でいただいた。残り半分は、明日の楽しみ。

梅をベースとした味であるが、あまりのおいしさに驚いてしまった。それは、ふくよかな味であり、さらに香りもふくよかである。炭酸飲料の味などと比べると、まさに雲泥の相違。その上品な味に対して、市販のものはいずれも劣っていると言ってよい。

秘書さんのお母上が、長いご経験の間に完成された味であろう。薄めてはいけないと言われた理由が、なるほどわかる。薄めても、反対に濃くても、この味は変わってしまうでしょう。それほど、バランスの取れた素晴らしい味なのである。私は、いただいたときに、何となくなつかしい気がした。しかし、その記憶がどこで培われたのかわからない。秘書さん、お母上、ご厚意に感謝致します。
あきらめたほうが早いか? 身体の病気。


古希を過ぎたころから、何となく身体の調子が悪い。それが、2011年6月の半ばに太田事件があって、すっかり衰えてしまった。そんなわけで、今日現在(8月1日、月曜日)まったく疲れ切った状態である。

血糖値も最高値(2000mg/dl)を超えてしまった。本来ならば通院しなければならない値だが、何とか自分で治したい。病院へ行くと、前回の院内感染の問題が見逃されて、やがて表に現れてしまうだろう。

とどのつまり、もはや自分で治すしかないのである。そこで、思い切ってやってみることにした。もしかしたら、ムダなことをしていたり、間違ったことをしているかもしれない。さらに言えば、あきらめたほうが早いのかもしれない。しかし、何もしないよりはよいだろう。
「生きている」実感よりも、「生かされている」。


毎日、自分自身が「生きている」のは事実であろう。しかし、私は「生きている」というよりも、何となく「生かされている」というような感じを受ける。あたかも、生け簀(いけす)の中で、調理をされる日まで生かされている魚のような。

それは、自分自身で自分自身の未来についての自信がないためかもしれない。また、思うようにいかないジレンマを嘆いているのかもしれない。いずれにしても、何となく自分が生きることについて、かなり以前に積極的な意思を失ってしまった。

なぜ、そんなことになってしまったのだろうか。若いころは、決してそうではなかった。おそらく、加齢によって考え方が変わってきたのかもしれない。自分自身の体力の限界を知ったからかもしれないし、知力のあさはかさを身にしみて理解したためかもしれない。
何故に付きあい減らし、生きつづけるか?


入院・手術・そして退院。その後、自分自身の体調がおかしくなってしまった。院内感染というか、身体が失調してしまったのである。あれほど丈夫だったのに、すぐに調子がおかしくなる。呼吸が苦しくなって、咳が止まらなかったりする。

また、急にオシッコがしたくなったりする。しかし、トイレに行ってしてみると、少ししか出ない。おそらく自律神経の調子がよくないのであろう。

そんなわけで、人々との付合いがなくなってしまった。誘われても、同窓会やゴルフなどに行かなくなった。つまり、他人と付き合うのが億劫になったのである。とくに、コンサートなどは苦手。理由を言わず、桜ヶ丘のピアノの先生の発表会に行かなかったら、「私の演奏など聞いても意味がない」というように思っていると、誤解をされてしまった。仕方のないことである。
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