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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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地図上で歩くシミュして楽しい時間。


「歩くシミュ」とは、「歩くシュミ」(趣味)と言ってよいかもしれない。実際には、シミュレーション(simulation)であって、あたかも歩いたかのような感じが得られるのである。

かつて私は十数キロも歩いたが、数年前に足を痛めてしまった。したがって、あまり歩けなくなった。せいぜい1キロメートルくらいが、いいところ。仕方なくパソコンの地図上で、あちこちを行ってみる。グーグルやヤフーの地図では、ドラッグして引っ張ると、どこまでも進める。つまり、道なりに進んでいくことができる。

おまけに、航空写真モードにすれば上空から見た景色がわかる。グーグルのものは主要道路のストリートビューというのがあって、道に沿って景色を見ることもできる。至れり尽くせりである。
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どちらでもダメな選択、老いたる歩行。


万歩計を付けて、せっせと歩く人がいる。また、ほとんど歩かない人もいる。どちらがよいのであろうか。若ければともかく、高齢者はいずれもダメ。歩きすぎてもいけないし、歩かなくてもいけない。

鰐論法(わにろんぽう)ではないが、どちらでもアウトである。エジプトに、ワニに子どもを取られた母親がたのむ話がある。すると、ワニは「この子を返すかどうか当てたら返してやろう」という。しかし、「返す」と答えたら、「外れ。もう食べちゃった」。「返さない」と答えたら、「返す気だったが、外れたので食べちゃう」。つまり、いずれにしてもダメになる論法。

私は、「老いたる歩行」について、誰かが何かを言うと、なぜかこの鰐論法のことを思い出すのです。なぜでしょうか。
徒(いたずら)に時を過ごさず、独(どく)を慎(つつし)む。


『論語』の冒頭に「子曰(しののたま)わく、学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる。また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。」とある。何とも素晴らしいことだ。『大学』に「小人閑居して不善をなし、至らざる所無し。」とある。そもそも、閑(ひま)を持てあますなどとは、もっての他であろう。閑なときが、人生の左右を決める時なのである。

獄中のような場所で、吉田松陰や河上肇は書物を読んだり、書いたりした。その結果が、後日を変えている。ガンジーも監獄を「自分の勉強部屋」と考えて、内省(ないせい)を深めた。だから、出所したら活動がいっそう充実した。正力松太郎はA級戦犯として獄中にあった時期に座禅をしたという。そして、出獄してから大事業を成し遂げたという。

以上は、渡邊師の貸して下さった『致知』にあった。「致知」は、朱子学では「知識をきわめて物事の道理に通​じる」こと。陽明学では「良知を最大限に発動する」こと​。格物致知(かくぶつちち)などと言う。「致知学」は、形式論理学のこと。明治初期に西周(にし あまね)が「​Logic」の訳語として、ギリシア以来の形式論理学を​我が国に紹介する際に用いた言葉。

面白くない思い出が、なぜか次々。


なぜだろうか? 面白くない思い出ばかりが、次々と浮かんできて、自分自身を苛(さいな)む。あまり、楽しかった記憶や有頂天になった時間は多くない。些細なことであっても不愉快な面白くないことが、次々と思い出されて気分が暗くなってしまう。

考えてみると、古来から人生は苦労の連続であったのかもしれない。中には楽しいことばかりの人もいるけれども、それは非常に数少ないことであろう。たいがいは、うまくいかずに四苦八苦する。その結果、不快な心情や残念な記憶が残る。仕方のないことかもしれない。

いたたまれなくなるような気持ちになるのはなぜだろうか。思わず大声で叫びたくなることもある。しかし、叫んだからといって、どうにかなるわけではない。何とかならないものだろうか。
ないものをあると認識するは錯覚。


ドン=キホーテのように、対象を別なものと誤認することはあるだろう。しかし、実際にないものを実態として認識するのは、脳のからくりかもしれない。常識では、考えられないことだ。

ないものを恐れて、それに翻弄されることは実際によくあることだ。そのようなことは、ちょっと考えればわかることである。

また、対象を勝手に解釈したり、潜在意識で思い出す。花が咲いて、美しいと思う。しかし、多くの女性が性器をむき出しにしていたら、何と思うだろうか。ボスのトンネルなども、もしかしたら産道を通った記憶かもしれない。自分の意識で、ないものをあると考えたり、勝手に解釈するのは困ったことである。般若心経にある「空」というのは、ないものをあると認識してはいけないという教義ではないだろうか。
文学の価値はないけどメモに有効。


この新句(十九音)には、あまり文学的価値はないだろう。五七七という形式の短詩形ではあるが、それは覚えやすい工夫をしたリズムである。

警句(アフォリズム)というのがある。短くて巧みな表現を用いて、真理を鋭くついた言葉や文のこと。諺(ことわざ)なども、それに含まれると言ってよいだろう。

そのような内容の言葉を思いついたときに、新句(十九音)の形にしておく。そうすることが、メモであり、記録なのである。作成をしたときは内容に関して承知しているものの、後になるとその趣旨がわからなくなる。そんなために、メモや記録として簡単な形でまとめておく。つまり、それ自体が「生きている証明」であり、「日々記憶の断片」である。そしてさらに、「生活の知恵」ともなるべきものなのである。
文学としてはお粗末、日々の断片。


このプログは、「日々記憶の断片」というタイトルが付いている。そして、サブタイトルに「生活の知恵」。記憶の断片には間違いないが、生活の知恵にはほど遠い。かつて、謝国権「性生活の知恵」という本が話題になったが、このプログには話題になるような目新しいことは少ない。何となくダラダラと続いている感じが否めない。

五七七で文体を整えているつもりではあるものの、むしろ自由律に近い形である。その結果、文学としてはちょっと舌足らず、単に個人用のメモに他ならない。それでも、少ない文字数で何とか記憶のニーモニックを作ることができるので、ありがたい。

饒舌で、多くを語る人がいる。私も本当は、もっと沢山の内容をここに書きたい。しかし、文才がないのでムリ。そこで、このような粗末な短い形になる。
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