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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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徒(いたずら)に時を過ごさず、独(どく)を慎(つつし)む。


『論語』の冒頭に「子曰(しののたま)わく、学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる。また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。」とある。何とも素晴らしいことだ。『大学』に「小人閑居して不善をなし、至らざる所無し。」とある。そもそも、閑(ひま)を持てあますなどとは、もっての他であろう。閑なときが、人生の左右を決める時なのである。

獄中のような場所で、吉田松陰や河上肇は書物を読んだり、書いたりした。その結果が、後日を変えている。ガンジーも監獄を「自分の勉強部屋」と考えて、内省(ないせい)を深めた。だから、出所したら活動がいっそう充実した。正力松太郎はA級戦犯として獄中にあった時期に座禅をしたという。そして、出獄してから大事業を成し遂げたという。

以上は、渡邊師の貸して下さった『致知』にあった。「致知」は、朱子学では「知識をきわめて物事の道理に通​じる」こと。陽明学では「良知を最大限に発動する」こと​。格物致知(かくぶつちち)などと言う。「致知学」は、形式論理学のこと。明治初期に西周(にし あまね)が「​Logic」の訳語として、ギリシア以来の形式論理学を​我が国に紹介する際に用いた言葉。

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