忍者ブログ
rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
ブログ内検索
ご案内


現在、このプログではコメントなどを受け付けていません。
お恥ずかしい個人的な内容が多いからです。それでももしも、ご意見やご質問があればここから願います。


似顔説明

[127]  [128]  [129]  [130]  [131]  [132]  [133]  [134]  [135]  [136]  [137
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

トイレにもメモ用紙置き、すぐ書き留める。


私は、トイレにもメモ用紙を置いて、思い付いたことがあれば、すぐ書き留められるようにしている。忘れないようにするためである。もしも、そのときメモをしておかないと、おそらく永久に忘れてしまうだろう。その結果、ふたたびそのことを思い付くことは、おそらく一生ないかもしれない。

中国の欧陽修という人は「三上」と言って、優れた考えが浮かんでくる三つの場所は、「馬上」「枕上」「厠上」であると書き残している。現在は、すでに馬上などはありえないが、私は電車やバスの中で同様な体験をする。

したがって、いつもメモ用紙と筆記具をポケットに入れてあるし、むろん家で寝るときは枕元にメモ用紙を置いておくことは習慣になっている。したがって、トイレにもそうしてある次第。
PR
この箱の中に、無限の可能性あり。


この箱というのは、無限の空間をもっているとも言ってよい私のパソコン。
2010年7月に購入した「DELL studio XPS モニタセットパッケージ」である。CPUは「2.80GHz、8MB L3キャッシュ」で、メモリは「8GB(2GB✕4)。それに、ハードディスクが1TBが付いている。生まれて初めての、1テラバイトだ。しかし、まだ一年にもならないのに、ずいぶんと使ってキーボード上の「K」は、すでに刻印がはがれてしまった。

私には大きな夢が二つあった。一つは、昭和二十年(六歳)ごろ。広い道路で自動車を運転したいと思った。それが、間もなく大型免許と自動二輪の免許を取って、夏のアルバイトでチリ輸出用のバスをテスト走行した。国内の路線バスよりも一回り大きく、現在の空港バスの大きさで左ハンドルだった。

もう一つは、昭和三十五年(二十歳前後)。一生の間に、自分用コンピュータを持ちたいと思った。LGP-30という米軍が払い下げたコンピュータが学校にあったからだ。いずれも、科学技術の急速な進歩で、夢が早く実現した。
グーグルの地図見ていれば、時間忘れる。


グーグル(Google)の地図を見ていて、時間を忘れてしまうことがある。「あれは、どこだったかなぁ?」などと思案をして場所を探しているときである。前に行っているので、なつかしい気持ちがする。なおさら、探し求めたい気持ちがつのって深い。

こんなことがあった。狛犬ではなくて蛇が蜷局(とぐろ)を巻いているところがあったが、それがどこだか思い出せない。京王高尾線の駅だったと思うが、いずれにも見当たらない。そこで、Windowボタンの検索で「蛇観音」とやってみた。すると、鐘ヶ淵駅周辺と出た。そして、そこの記事から西国立駅周辺の矢川弁財天だということがわかった次第。

ここには簡単に記述したが、実際には半日がかりの作業。そんな努力をするのであるが、それがそれなりに楽しい時間である。したがって、時間が経っていくのを忘れてしまう。


思えらく、意味なくムダな日々の生業(なりわい)。


思えらくは「以為らく」「謂えらく」とも書き、「思っていることには」とか「考えるには」という意味。しかし、ここで私は「よくよく考えてみれば……」という意味に使う。

つまり、あるとき静かにして、よくよく考えてみれば、何となく日々の生活そのものがムダで、無意味なような感じがすることに気付いたということ。そして、人生に意義があるなどということは、単に脳の錯覚や幻想にすぎないのではないかとさえ疑念を抱く。

単に、生きていることはそれ自体が目的なので、金を貯めるとか、有名になるなどということは、妄念に過ぎないのではないか。そして、そんなことに努力をして人生が過ぎてしまう。それはそれでよいと思うが、もともと「ないものをあると脳が考える」のは、やがて破綻(はたん・はじょうではない)を来すのである。
これでもか、これでもまだか? それが現代。


「これでもか?」「これでもまだか?」というように、欲求を追及させるのが現代社会。むろん、その波に乗る自分自身がいけないのだが、社会の仕組みがそのようになってしまっているので、いかんともしがたい。中には卑近な例で、ブログ・Twitter・Facebookなどに、精力的に自己の意見を出し続ける。

したがって、金持ちがますます金持ちになろうとしたり、有名人がさらに有名になろうとする。そんなことをすれば、やがて破局があるのはわかっている。まったく、愚かしいことである。

現代社会において、「吾ただ足るを知る」などと考える人は、非常に少ない。生きている限り、精力的に金銭を求めたり、あくなきほど名誉を求め続ける。何とも、際限のない意味のないことだ。それは、ちょうど「カエルの腹自慢」と同じことではないか。やがて、自分自身がアウトになってしまうことをすっかり忘れているからである。
日々続く運動不足、習慣病に。


運動不足が日々続くと、つもりつもって生活習慣病を招いてしまう。したがって、常に運動不足にならないようにしなければならない。運動不足の解消は、必ずしも歩かなくてもよい。例えば、バスに乗っているだけでもよい。乗り降りのときに、足腰を鍛える。さらに、揺られることによって、身体が運動をする。

また、サウナなどもよいでしょう。とくに、温冷浴がよい。皮膚を丈夫にして、グルミューを正常化してくれる。したがって、バスに乗って、スーパー銭湯などに行くのも一つの方法。ゆったりとしていて、気分転換にもなる。

いちばんいけないのは、部屋に閉じこもって、何もしないこと。日中に身体を動かすことが少ないと、睡眠も浅くなってしまう。いきおい、体調を崩して生活習慣病を招いてしまうからです。そんなことが、わかってきました。
老いたらば、踊躍歓喜や抃舞少なし。


還暦を過ぎたころから、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)や抃舞(べんぶ)するようなことが少なくなった。せいぜい「しめしめとほくそ笑むくらい」が多い。もしかしたら、感情が鈍くなってしまったためであろうか。

『歎異抄』第九条に、「念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ、おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。」とある。

抃舞の「抃」は、「卞」(ぼくのと)から来たらしい。卜部(うらべ)は字の形から「ぼくぶ」である。いずれにしても難しい字であるが、喜びのあまり手を打って踊ったりすることは少なくなった。親鸞(1173~1262)や、絵伝で見た一遍上人(1239~1289)のころには、多くあったことかもしれない。
忍者ブログ [PR]