rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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老いたらば、踊躍歓喜や抃舞少なし。
還暦を過ぎたころから、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)や抃舞(べんぶ)するようなことが少なくなった。せいぜい「しめしめとほくそ笑むくらい」が多い。もしかしたら、感情が鈍くなってしまったためであろうか。
『歎異抄』第九条に、「念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ、おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。」とある。
抃舞の「抃」は、「卞」(ぼくのと)から来たらしい。卜部(うらべ)は字の形から「ぼくぶ」である。いずれにしても難しい字であるが、喜びのあまり手を打って踊ったりすることは少なくなった。親鸞(1173~1262)や、絵伝で見た一遍上人(1239~1289)のころには、多くあったことかもしれない。
還暦を過ぎたころから、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)や抃舞(べんぶ)するようなことが少なくなった。せいぜい「しめしめとほくそ笑むくらい」が多い。もしかしたら、感情が鈍くなってしまったためであろうか。
『歎異抄』第九条に、「念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ、おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。」とある。
抃舞の「抃」は、「卞」(ぼくのと)から来たらしい。卜部(うらべ)は字の形から「ぼくぶ」である。いずれにしても難しい字であるが、喜びのあまり手を打って踊ったりすることは少なくなった。親鸞(1173~1262)や、絵伝で見た一遍上人(1239~1289)のころには、多くあったことかもしれない。
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