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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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考えが変わる成長、こはだ・このしろ。


かなり前に自分が書いた文章を見ると、考えていたことが現在とは異なる。つまり、その後に成長をしたことになろう。よく、知人に「前に言ったことと違うじゃないか?」などと言われる。

ころころと意見が変わるわけではなく、思索が成長した結果、より大きな範囲で対象を捉えることができるようになった場合が多い。

成長魚というのがある。こはだ・このしろなどもそうだ。こはだ(小鰭)はニシン目ニシン科の海水魚。このしろの中くらいの大きさのもので、鮨(すし)などにする。このしろ(魚へんに祭、または鮗)は全長25センチくらいのもの。体は紡錘形で、背側が青色で数列の黒点が並び、肩部に黒斑が一つ。思想も、成長魚のように、変化をしていくものだと思えばよい。
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研ぎすましたるたる刃(やいば)にも似た言葉あり。


言葉に、棘(とげ)のある人がいる。話題に、皮肉や当てつけなどが多い人もいる。話をしていると、不愉快になってしまうことがある。

文章にしても、同じ。もしかしたら、このプログ自体にも、その傾向があるかもしれない。もともと「健康」と「老化予防」、そして「安心立命」などがテーマだったが、見てくれる人は少ない。

そこで、自分自身が作って、自分自身が読むことになる。つまり、自分自身が読者なので、ついグチって(愚痴って)みたり、心情の吐露(とろ)をしたりしてしまう。また、身勝手な表現があったりもする。なぜならば、自分でわかればよいから。さらに、自分に刃を向けたりする。後で、読み直して恥ずかしく思い、みっともないものと考える。しかし、それが事実であるから仕方ない。
「ほうばる」とつづる言葉は、なぜ辞書にない?


「ミスドでブレンドコーヒーを二杯飲んで、エンゼルクリームをほうばると私は至福の至りである。」と書いて、「ほうばる」を漢字にしようと思った。そこで、ヤフーの辞書で調べた。すると「ほうばる」がない。さらに四キログラムもある昔の広辞苑を引っ張り出して引いてみた。しかし、そこにもない。

「ほうばり」もないし「ほおばる」もない。せいぜい「ほほ」(頬)があるだけ。そして、頬は「ほお」を引けとなっている。引いて見ると「顔の両面、耳と鼻・口との間の柔らかい部分」。そして「―がこける」という使用例があった。

そこで、私は考えた。「―がこける」のと反対に、頬がいっぱいになった状態ではないかと。いかがなものであろうか。
もう何も、するのがいやになるときもある。


雨の日などに、つい何となく面倒くさくなり、何もかもするのが、いやになってしまうときがある。とくに身体が不調なとき、風邪をひいたとき、そして疲れているときなどである。

また、自分自身の人生において「何のために、何をしているか」などと改めて考えると、つい物事が億劫(おっくう)になりがちだ。あれこれと考えていると、どうも滅入ってしまう。そして、そんなときには仕方なく「無意味の意味」などという概念が出てくる。

健康で晴れた日には、そのようなことが少ない。何かとしたいことやあちこち行きたいところがあるからだ。何となく、人間は身体を動かさないで、考えてばかりいると消極的になってしまうのかもしれない。とくにそんなことは、私の場合だけかもしれないが、……。
複雑になればなるほど、トラブル多し。


ふつう、物事は複雑であればあるほど、問題も多くなるようだ。追加や改良をしたシステムでは、誤動作やエラーなどの障害が多いようである。社会のシステム以外に、私たちの身体もそうだろう。

皮下脂肪を手術で除いたり、歯にインプラントを付けたりすると、後で問題が生じることもある。身体は、それ自体でホメオスタシスをもっている。ちょっと状態を変えると、全体の調子も変わってしまう。複雑にする理由はそれなりにあるだろうが、できれば全体を単純にしておく必要がある。

社会全体のシステムなどは、個人では何ともしがたい。しかし、自分自身の身の回りや身体などは、あまり複雑にしてはいけない。つまり、自分を可能なかぎりすっきりとさせておく必要があるのかもしれない。
愚痴を言う、「昔は、そんなことがなかった」。


最近になって、大幅に身体の機能が失われてしまった。そして、「昔はそんなことがなかった」などと愚痴(ぐち・グチ)ったりする。みっともないことではあるが、現実なのだから仕方ない。

誰でも加齢とともに、体力は減少する。それは、至極当然なことではあるが、素直には納得できない。つい、こころのおごりが生じてしまうからだ。

そもそも昔のことなどは、どうでもよいことかもしれない。「昔は健康だった」とか「昔は金持ちだった」とか「昔は有名だった」などと言っても、仕方がない。そんなことよりも、現実の今に徹するのがよい。いま何とかして健康の状態を維持できれば、それでよいのではないか。「金持ち」や「有名」などは、取るに足らないことだと思う。
何一つ不自由はなし、健康ならば。


今のところ、私も妻も何とか健康である。そのうちに、何れかが一人になるであろうが、まだどちらも寝たきりになったり、アルツハイマー病などにはなっていない。

むろん、互いに度忘れがあったり、かなりメタボがかっているもののまだ外出できるので、幸福なのであろう。何れかが車椅子になったりしたら、お互いに外出も不自由になってしまうと思う。

すでに年金生活者なので、あまり日々の費用をかけられない。いきおい食費や交通費なども、みみっちくならざるをえない。散歩の領域を増やしてくれるシルバーパスは、大いに助かる。外食は吉野家など、さらにミスドでエンゼルクリームをほうばる。現在は不自由もなく、楽しい限りである。二人とも、まだ健康だからだろうか。
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