rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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パソコンは、どうしても眼を酷使、疲れる。
YouTubeなどで動画を見たり、音楽を聞いているときはよい。しかし、ホームページビルダーで編集をしたり、メールを書いたりするときは、目にかなりの負担があるのだろう。疲れてしまうのである。
画像を編集してセーブするときも、細心の注意が必要である。ピリオド(.)は、この画面では横に二つであるようだけれど、実際にはピクセル一つである。ものすごく小さい。いきおい、目を細めて熟視することによって、確認をしなければならない。目の焦点を合わせる筋肉を動かすのは、かなりエネルギーが必要らしい。
そんなため、何となくパソコンから遠ざかってしまう。とくに、老いてくると目が悪くなって、また注意力も散漫になってしまう。それでも「生きている証明」になるので、差し引いてもありがたいと思う。
YouTubeなどで動画を見たり、音楽を聞いているときはよい。しかし、ホームページビルダーで編集をしたり、メールを書いたりするときは、目にかなりの負担があるのだろう。疲れてしまうのである。
画像を編集してセーブするときも、細心の注意が必要である。ピリオド(.)は、この画面では横に二つであるようだけれど、実際にはピクセル一つである。ものすごく小さい。いきおい、目を細めて熟視することによって、確認をしなければならない。目の焦点を合わせる筋肉を動かすのは、かなりエネルギーが必要らしい。
そんなため、何となくパソコンから遠ざかってしまう。とくに、老いてくると目が悪くなって、また注意力も散漫になってしまう。それでも「生きている証明」になるので、差し引いてもありがたいと思う。
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なせばなる切に思いて、なさねばならぬ。
道元の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)だったか、孤雲懐奘(こうんえじょう)『正法眼蔵随聞記』だったか忘れたが、その一部の版に
<切に思うこと、必ず遂(と)ぐるなり>
という驚くべき言葉が、書写をした人によって書き加えられている。
孤雲懐奘(1198~1280)は比叡山の僧だったが、いさぎよく道元の弟子になり、後に永平寺の第二世となった人。最初の問答では道元に及ばなかったものの、後には師より優れたのではないかと私は思う。あまりよく知らないが、懐奘の一連の行動は、旧約聖書『コヘレットの書』にある
<畏(おそ)れは智慧の始まり>
という言葉を何となく私に思い出させた。
また、この新句(十九音)の下の句「なさねばならぬ」の意味は、熊沢蕃山と違って「しなければいけません」という意味。つまり、自分の可能性を絶対に諦めてはダメなのです。
道元の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)だったか、孤雲懐奘(こうんえじょう)『正法眼蔵随聞記』だったか忘れたが、その一部の版に
<切に思うこと、必ず遂(と)ぐるなり>
という驚くべき言葉が、書写をした人によって書き加えられている。
孤雲懐奘(1198~1280)は比叡山の僧だったが、いさぎよく道元の弟子になり、後に永平寺の第二世となった人。最初の問答では道元に及ばなかったものの、後には師より優れたのではないかと私は思う。あまりよく知らないが、懐奘の一連の行動は、旧約聖書『コヘレットの書』にある
<畏(おそ)れは智慧の始まり>
という言葉を何となく私に思い出させた。
また、この新句(十九音)の下の句「なさねばならぬ」の意味は、熊沢蕃山と違って「しなければいけません」という意味。つまり、自分の可能性を絶対に諦めてはダメなのです。
存在をすること自体、罪でもあるか?
自分が存在をしていること自体が、すでに罪であるのではないかというような錯覚と懸念。つまり、多くのものの犠牲と消費のうえに成り立っている私たちの日々の生活であるが、金さえ持っていれば何でも買えて、贅沢できる現代である。そんなことがふつうになった世の中で、存在が罪などと考える馬鹿はもはやいない。
しかし、サッタ王子の話や雪山偈などを考えると、過去にはものすごい人がいたと思う。キリスト教でもしかり。フランチェスコなどもその一人ではないか。
食べ物に関しても、謙虚さを失ってしまった。「五観の偈」(ごかんのげ)では、食事の都度「多くの人が働いてこの食事ができたが、自分はこれをいただく価値があるか」「食事を良薬と考えて、これを自分の完成のためにいただく」などと考える。しかし、もはやそんなことをする人は少ない。私の知っている範囲では、渡邊師とシスター三田くらい。
自分が存在をしていること自体が、すでに罪であるのではないかというような錯覚と懸念。つまり、多くのものの犠牲と消費のうえに成り立っている私たちの日々の生活であるが、金さえ持っていれば何でも買えて、贅沢できる現代である。そんなことがふつうになった世の中で、存在が罪などと考える馬鹿はもはやいない。
しかし、サッタ王子の話や雪山偈などを考えると、過去にはものすごい人がいたと思う。キリスト教でもしかり。フランチェスコなどもその一人ではないか。
食べ物に関しても、謙虚さを失ってしまった。「五観の偈」(ごかんのげ)では、食事の都度「多くの人が働いてこの食事ができたが、自分はこれをいただく価値があるか」「食事を良薬と考えて、これを自分の完成のためにいただく」などと考える。しかし、もはやそんなことをする人は少ない。私の知っている範囲では、渡邊師とシスター三田くらい。
着るというよりも着られる感じは病(やまい)?
ふつう私たちは衣服を着ているが、そんな感じはあまりしない。しかし、ともすると肌の周りに着物があるのを何となく感じることがある。つまり、自分自身の身体がシャツやパンツの入っているという感覚である。
それは、そもそも肌に付ける衣服が、反対に衣服の中に肌が納まったという逆の気持になる不思議な状態。なぜならば、身体自体が自分の意識の中に置かれたことになるからである。
そのようなときは、私の場合、身体全体が不調であるときが多い。何でもそうだと思うが、ふだん感じないことを意識するときは、知覚神経が普通ではないことがある。だから、ことさらに衣服を意識したり、その中に入っている自分自身を感じたりするのであろう。本来は、衣服と自分は一体で、その境目をあまり意識しないのが、ふつうである。
ふつう私たちは衣服を着ているが、そんな感じはあまりしない。しかし、ともすると肌の周りに着物があるのを何となく感じることがある。つまり、自分自身の身体がシャツやパンツの入っているという感覚である。
それは、そもそも肌に付ける衣服が、反対に衣服の中に肌が納まったという逆の気持になる不思議な状態。なぜならば、身体自体が自分の意識の中に置かれたことになるからである。
そのようなときは、私の場合、身体全体が不調であるときが多い。何でもそうだと思うが、ふだん感じないことを意識するときは、知覚神経が普通ではないことがある。だから、ことさらに衣服を意識したり、その中に入っている自分自身を感じたりするのであろう。本来は、衣服と自分は一体で、その境目をあまり意識しないのが、ふつうである。
何のため何をしてるか、わかっていない。
正直のところ私は、自分が何のために、何をしているかがわかっていない。つまり、いまだに生きている意味の理解ができないのである。そこで、ただ「生きているから、生きている」と考えるしかない。
もっと正直に言うと、私は「生きている」のではなく、「生かされている」のではないかと思う。いつも、何かをしているときに、「そんなことをして、何になるのか?」と考えてしまう。「魚籃観音の研究」などが、いったい社会に有益なのだろうか、意味があるのだろうかなどと、……。
あまつさえ、もっと本質的な不安がある。それは、例えば「ニワトリが飼われていて、そのことに気付いていないのではないか」というような、懸念である。そんな葛藤の中で、自分自身が日々何のために何をしているのかが、まだわかっていないのである。
正直のところ私は、自分が何のために、何をしているかがわかっていない。つまり、いまだに生きている意味の理解ができないのである。そこで、ただ「生きているから、生きている」と考えるしかない。
もっと正直に言うと、私は「生きている」のではなく、「生かされている」のではないかと思う。いつも、何かをしているときに、「そんなことをして、何になるのか?」と考えてしまう。「魚籃観音の研究」などが、いったい社会に有益なのだろうか、意味があるのだろうかなどと、……。
あまつさえ、もっと本質的な不安がある。それは、例えば「ニワトリが飼われていて、そのことに気付いていないのではないか」というような、懸念である。そんな葛藤の中で、自分自身が日々何のために何をしているのかが、まだわかっていないのである。
ラップリンしすぎるとダメ、帰還大きく。
ラップリンには個人差があるが、いずれにしても量が多すぎると効果が薄れてしまうようだ。負帰還(NFB=ネガティブフィードバック)の特徴は、バランスを保つことが大切。つまり、多すぎると収斂をしないで発散してしまう。
発散は、発振と同じでコントロールが利かなくなった状態。ほとんどの物事に適量があって、多ければそれでよいというものではない。
オシッコは、あまりおいしいものではないから、少しであれば好都合。具体的に言うと、小匙(こさじ)に半分くらいを啜(すす)る程度でよいでしょう。そのときに、味をみることも大切。なぜならば、甘いときは糖尿が出ている可能性、塩辛いときは塩分の取りすぎの傾向がある。健康の状態が、味でわかるのである。むしろ、味のないときのほうが体調がよいのではないか。
ラップリンには個人差があるが、いずれにしても量が多すぎると効果が薄れてしまうようだ。負帰還(NFB=ネガティブフィードバック)の特徴は、バランスを保つことが大切。つまり、多すぎると収斂をしないで発散してしまう。
発散は、発振と同じでコントロールが利かなくなった状態。ほとんどの物事に適量があって、多ければそれでよいというものではない。
オシッコは、あまりおいしいものではないから、少しであれば好都合。具体的に言うと、小匙(こさじ)に半分くらいを啜(すす)る程度でよいでしょう。そのときに、味をみることも大切。なぜならば、甘いときは糖尿が出ている可能性、塩辛いときは塩分の取りすぎの傾向がある。健康の状態が、味でわかるのである。むしろ、味のないときのほうが体調がよいのではないか。
叱ること大切であり、とくに幼児期。
現代の親は、あまり子供を叱らない。叱らないというよりも、叱れないのではないだろうか。学校でも、そのようである。いきおい、わがままな子や身勝手な子が増えてしまう。また、善悪の区別さえつかない子どもも多くいる。
いったい、どうしたことであろうか。電車の中や公共の場所などで、子どもの身勝手を見てみぬふりをする。敗戦後に自信を失った親たちが、子を正しく躾(しつけ)られなくなったり、GHQの指導を履き違えた教育者がいたりしたからであろう。
しかし、子どもは『万葉集』にある「子にしかめやも」のように、社会の宝物である。したがって、誰もが正しく注意をして正しく育て上げなければならない。『論語』にもあるように、「義を見てせざるは勇なきなり」になってはいけない。渡邊師は、若い人の無礼をしっかりと注意されるようである。
現代の親は、あまり子供を叱らない。叱らないというよりも、叱れないのではないだろうか。学校でも、そのようである。いきおい、わがままな子や身勝手な子が増えてしまう。また、善悪の区別さえつかない子どもも多くいる。
いったい、どうしたことであろうか。電車の中や公共の場所などで、子どもの身勝手を見てみぬふりをする。敗戦後に自信を失った親たちが、子を正しく躾(しつけ)られなくなったり、GHQの指導を履き違えた教育者がいたりしたからであろう。
しかし、子どもは『万葉集』にある「子にしかめやも」のように、社会の宝物である。したがって、誰もが正しく注意をして正しく育て上げなければならない。『論語』にもあるように、「義を見てせざるは勇なきなり」になってはいけない。渡邊師は、若い人の無礼をしっかりと注意されるようである。