rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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生きる意味、生かされる意味、わからないまま。
若いころは、自分が「生きる」ということなどは考えなかった。そして「生きている」という意識もあまりなかった。ただ、日々を何とかがんばって切り抜けてきたように思う。
しかし、還暦を過ぎたころから「生きている」という実感よりも、むしろ「生かされている」のではないかと考えるようになった。しかし、その「生かされている」本当の意味などは、いまだにわからないままである。
つまり、自分自身が「生きている」ことは事実であるが、その意味がわかっていない。また、「生かされている」意味などもわからない。いったい、誰が自分を生かしているのかがわからない。でも、何者かによって生かされていることは、うすうす本能的にわかってきたところである。
若いころは、自分が「生きる」ということなどは考えなかった。そして「生きている」という意識もあまりなかった。ただ、日々を何とかがんばって切り抜けてきたように思う。
しかし、還暦を過ぎたころから「生きている」という実感よりも、むしろ「生かされている」のではないかと考えるようになった。しかし、その「生かされている」本当の意味などは、いまだにわからないままである。
つまり、自分自身が「生きている」ことは事実であるが、その意味がわかっていない。また、「生かされている」意味などもわからない。いったい、誰が自分を生かしているのかがわからない。でも、何者かによって生かされていることは、うすうす本能的にわかってきたところである。
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「ようつべ」や「ついたあ」などは、知的空間。
最初のころ、読み方がわからなかった。そして、わからないままに「YouTube」を「ようつべ」、「Twitter」を「ついたあ」として、固有名詞で辞書ツールに単語登録をした。そんなわけで、私はそのまま使っている。
そして、この「ようつべ」も「ついたあ」も、最近では私の「知的空間の一部」になった。いずれもタダ(無料)で、それなりに充足している。筆禍や著作権など注意をすれば、まずは安全。何となく「YouTube」を見たり、「Twitter」を読んでいると勉強になるし、面白い。
情報過多の時代に、情報の氾濫の中で、たれ流しで発信されたデータから、少なくとも共通の話題が選べるので、知的空間の周囲や内容を広げてくれ、老化予防の効果もある。しかし、いずれもブログ形でプロバイダにすべてを預けているから、失われてもよいような配慮が必要である。
最初のころ、読み方がわからなかった。そして、わからないままに「YouTube」を「ようつべ」、「Twitter」を「ついたあ」として、固有名詞で辞書ツールに単語登録をした。そんなわけで、私はそのまま使っている。
そして、この「ようつべ」も「ついたあ」も、最近では私の「知的空間の一部」になった。いずれもタダ(無料)で、それなりに充足している。筆禍や著作権など注意をすれば、まずは安全。何となく「YouTube」を見たり、「Twitter」を読んでいると勉強になるし、面白い。
情報過多の時代に、情報の氾濫の中で、たれ流しで発信されたデータから、少なくとも共通の話題が選べるので、知的空間の周囲や内容を広げてくれ、老化予防の効果もある。しかし、いずれもブログ形でプロバイダにすべてを預けているから、失われてもよいような配慮が必要である。
勘違いすること多い昔の映画。
かなり昔に見た映画。もう一度見たくなって、YouTubeで探す。たいがいは、アップされていて、見ることができる。しかし、探すのが大変である。
モーツアルトのピアノ協奏曲21番の第二楽章やヴィヴァルディの曲がバックに流れていたスエーデン映画『みじかくも美しく燃え』は、「美しく短く燃える」と覚えていた。文字が異なると、出てこないことが多い。そこで、原名の「Elvira Madigann」とするとたくさん出てくる。ストーリは単純で、おそらく音楽が効果的に印象に残ったのかもしれない。
『かくも長き不在』は「かくも久しき不在」と覚えていて、なかなか出なかった。同じ原作者のフランス映画で、岡田英次が出ていた「ヒロシマ・モナムール」(Hiroshima,mon amour)は、『二十四時間の情事』とすると出た。探すのに一苦労するが、一部ではなく全巻見れるものもある。
かなり昔に見た映画。もう一度見たくなって、YouTubeで探す。たいがいは、アップされていて、見ることができる。しかし、探すのが大変である。
モーツアルトのピアノ協奏曲21番の第二楽章やヴィヴァルディの曲がバックに流れていたスエーデン映画『みじかくも美しく燃え』は、「美しく短く燃える」と覚えていた。文字が異なると、出てこないことが多い。そこで、原名の「Elvira Madigann」とするとたくさん出てくる。ストーリは単純で、おそらく音楽が効果的に印象に残ったのかもしれない。
『かくも長き不在』は「かくも久しき不在」と覚えていて、なかなか出なかった。同じ原作者のフランス映画で、岡田英次が出ていた「ヒロシマ・モナムール」(Hiroshima,mon amour)は、『二十四時間の情事』とすると出た。探すのに一苦労するが、一部ではなく全巻見れるものもある。
いろいろと学ぶことあり、「地獄変相」。
最近になって、中国で描かれた『地獄変相図』というのがある。かなり大掛かりなもので、素晴らしい。源信の「往生要集」をそのまま絵にしたようなもの。見ごたえがあった。YouTubeの第四巻には、<三字経に「養いて教えざるは父の過ちなり」>とあって、幼いころから躾(しつけ)をしないと、将来にダメな人間になって地獄に堕ちると警告。
また、第六巻には<仏さまは、「財施をすれば富を得る。法施をすれば智慧を得る。無施畏をすれば健康長寿を得る」と仰(おっしゃ)った>とある。
そして、最後のほうで<玉皇天帝は孟婆神を幽冥(ゆうめい)の神に任命し、孟婆亭を建立(こんりゅう)させた。そして、生まれ変わろうとするものは、そこで茶を飲まされて、前世のことを忘れてしまう>とあった。私にとっては、なかなか含蓄のある言葉である。
最近になって、中国で描かれた『地獄変相図』というのがある。かなり大掛かりなもので、素晴らしい。源信の「往生要集」をそのまま絵にしたようなもの。見ごたえがあった。YouTubeの第四巻には、<三字経に「養いて教えざるは父の過ちなり」>とあって、幼いころから躾(しつけ)をしないと、将来にダメな人間になって地獄に堕ちると警告。
また、第六巻には<仏さまは、「財施をすれば富を得る。法施をすれば智慧を得る。無施畏をすれば健康長寿を得る」と仰(おっしゃ)った>とある。
そして、最後のほうで<玉皇天帝は孟婆神を幽冥(ゆうめい)の神に任命し、孟婆亭を建立(こんりゅう)させた。そして、生まれ変わろうとするものは、そこで茶を飲まされて、前世のことを忘れてしまう>とあった。私にとっては、なかなか含蓄のある言葉である。
何となく、生簀(いけす)の中に置かれた感じ。
私は「生きている」というよりも、「生かされている」という感じがしてならない。つまり、何か大きなものに観察をされている感じなのである。それはもしかしたら、実験の一部なのかもしれない。生簀の中にいるとは、生殺与奪の力も相手方にあるということ。
つまり、神とでも言ったような存在が、空間と時間の中に、私を閉じ込めたのではないだろうか。鏡で自分の顔を見ても、何となく自分自身ではないように感じるときもある。おそらく、そこに写っているのは観察をされている自分のほうであろう。
また、時間についても奇妙な体験をする。一時間が長く感じたり、短く感じることである。それも、もしかしたら時間を縮小して、実験をされているためかもしれない。ニュートン時間やベルグソン時間を考えてみたら、いずれにしても何かの目的のために生かされているのではないかと、私は思う。
私は「生きている」というよりも、「生かされている」という感じがしてならない。つまり、何か大きなものに観察をされている感じなのである。それはもしかしたら、実験の一部なのかもしれない。生簀の中にいるとは、生殺与奪の力も相手方にあるということ。
つまり、神とでも言ったような存在が、空間と時間の中に、私を閉じ込めたのではないだろうか。鏡で自分の顔を見ても、何となく自分自身ではないように感じるときもある。おそらく、そこに写っているのは観察をされている自分のほうであろう。
また、時間についても奇妙な体験をする。一時間が長く感じたり、短く感じることである。それも、もしかしたら時間を縮小して、実験をされているためかもしれない。ニュートン時間やベルグソン時間を考えてみたら、いずれにしても何かの目的のために生かされているのではないかと、私は思う。
「こんなことして何になる?」、思うことあり。
若いころはすべてが体験になるので、それなりの意味があっと思う。失敗や無駄なことも、後日になって役立つことがあるからであろう。それはいわゆる体験学習の一環と思えばよい。
しかし高齢者になって、さらに古希を過ぎると、それこそ「年寄りの冷や水」の場合がある。「年寄りの冷や水」は「老人が身体に冷水を浴びるような危険な行為」ばかりではない。高齢者にふさわしくない行為や危険な行為、さらには差し出がましい振る舞いをすることなどを戒めている。単に戒めるばかりではなく、そんなことを冷やかしてさえいる言葉のようだ。
「こんなことして何になる?」と、つくづく思うことがある。あまり無理をして、社会に迷惑をかけることのないようにしたい、とも考えているのだが、……。
若いころはすべてが体験になるので、それなりの意味があっと思う。失敗や無駄なことも、後日になって役立つことがあるからであろう。それはいわゆる体験学習の一環と思えばよい。
しかし高齢者になって、さらに古希を過ぎると、それこそ「年寄りの冷や水」の場合がある。「年寄りの冷や水」は「老人が身体に冷水を浴びるような危険な行為」ばかりではない。高齢者にふさわしくない行為や危険な行為、さらには差し出がましい振る舞いをすることなどを戒めている。単に戒めるばかりではなく、そんなことを冷やかしてさえいる言葉のようだ。
「こんなことして何になる?」と、つくづく思うことがある。あまり無理をして、社会に迷惑をかけることのないようにしたい、とも考えているのだが、……。
わからないこと多くあり、それでも作る。
いろいろと考えるのだが、わからないことばかり。それでも、やっているうちに何とかわかってくるから不思議だ。決して諦めずに、あれこれと工夫をする。しかし、深入りをすることが無意味であると考えたら、いさぎよくやめる。
今まで、「ホームページ」「ブログ」「YouTube」「twitter」、そしてその「ボット」と進めてきた。いずれも最初のころは、まったく自信がなかった。なぜならば、私のような年配者にはきわめてわかりにくい仕組みになっているからである。ボットなどは、まったくナウい感覚の表現で、逆に取っ付きにくい。
それでも、そんなことに挑戦をすることが、老化予防の一環としては、非常に好ましいことかもしれない。また、それなりに自分自身の知的空間を広げるわけだから、わからなくても大きな効果があることは事実。何でもやってみる価値があると思う。
いろいろと考えるのだが、わからないことばかり。それでも、やっているうちに何とかわかってくるから不思議だ。決して諦めずに、あれこれと工夫をする。しかし、深入りをすることが無意味であると考えたら、いさぎよくやめる。
今まで、「ホームページ」「ブログ」「YouTube」「twitter」、そしてその「ボット」と進めてきた。いずれも最初のころは、まったく自信がなかった。なぜならば、私のような年配者にはきわめてわかりにくい仕組みになっているからである。ボットなどは、まったくナウい感覚の表現で、逆に取っ付きにくい。
それでも、そんなことに挑戦をすることが、老化予防の一環としては、非常に好ましいことかもしれない。また、それなりに自分自身の知的空間を広げるわけだから、わからなくても大きな効果があることは事実。何でもやってみる価値があると思う。