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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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結局は、わからずじまい、死後の生など。


いろいろと考えてはみたものの、死後のことなどは結局解らないままに、自分自身が死んでしまうのではないだろうか。もしかしたら、体験をしてはいるが、記憶にないのかもしれない。それは、あたかも転勤先の場所がどこでどんなところであるかを知らずに、迎えが来て飛行機に乗ってしまうようなものだ。

今のところ、まだ現実に体験をしていないからか、とくに「死後の世界」があるとは思えない。また、死ぬということ自体、現実でないように感じる。確かに、心臓や肺が停止して、脳の機能がダメになり、焼かれて灰になるだろう。

しかし、そういう外見上のことではなく、私たちが置かれた次元自体が生死にかかわらず続くのではないか。それを感じないだけで、死を切り離して論じるのは、ドーナットの重心が空間にあるのを知らないのと同じ。
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パソコンの中が、一つの知的空間。


私のパソコンには、4G(よんギガバイト)の主メモリに、1T(いちテラバイト)のハードディスクが付いている。最初のころと比べると、ずいぶん大きなメモリ空間である。文字はむろんのこと、画像・動画などをかなりの分量入れることができる。

何となくガラクタボックスのような感じになりがちであるが、私にとってそれは一つの知的空間である。その中で、自分自身の考えなどを少しずつまとめていけるから、その利用価値は絶大なのだ。

検索などもインターネット上で、自分自身のドメインやアドレスを指定して行うことができる。また、Windows 7では簡単に「プログラムとファイルの検索」ができる。スタートボタン(Windowsキー)から指定をして、プログラム・ファイル・メールから付箋まで、ほぼ確実に探してくれるのでありがたい。
このプログ、個人のメモ帳、備忘の類い。


「日々記憶の断片」とか「生活の知恵」などと、偉そうなタイトルが付いているが、何となく私個人の単なるメモ帳であったり、備忘の類いなどという謗りを免れないであろう。

また、未完の記事がかなりあって、見苦しい限りでもある。そのことは、私自身の人格の未熟がなせる技であって、何ともいたし方ない。あまり訪問者がないままに、開き直った感じであるかもしれない。

「日々記憶の断片」は、考えたことを記憶として断片として残そうという他愛のない企画。「生活の知恵」は、健康や生活習慣について思いついたこと。私のは「生活の知恵」であって、かつて大流行した謝国権先生の「性生活の知恵」とは関係がありません。
世の中に面倒なこと、多すぎないか?


現代社会には、何となく面倒でムダの多いことが目立つ。それがどこからくるのかはわからないが、おそらく利権やセクショナリズムも大きく関係しているだろう。

面倒で煩わしいことが多いので、世の中がますますいやになってくる。昔からある隠遁者なども、その時代にはそれなりにそうであったのかもしれない。

考えてみると、世の中の仕組みの中には、自分がいる場所がないのである。そうかと言っても、直ちに死ぬわけにもいかないし、隠遁をするわけにもいかない。つまり、死んで解決ができる問題でもないし、隠遁したから逃れられるわけでもない。矛盾と理解できないことが多すぎる現代社会であるが、私は何とかして、その中にいなければならないのである。
老醜という言葉、ふと脳裡をよぎる。


老醜(ろうしゅう)という言葉がある。その意味は、ふつう「年をとって姿などが醜くなること」。「老醜をさらす」などという。私も、いつしかその齢(よわい)になって、そんな言葉が脳裡を過(よ)ぎることがある。何かをして失敗をしたときなどは、つくづく思う。

しからば、老醜をさらさないためにはどうしたらよいのか。むろん、何もしなければ失敗はないだろう。しかし、そのようなわけにはいかない。生きている以上は、日々の方便(たつき)が必要である。例えば、健康で過ごすためにも、勉強や工夫が必要だ。

そんな按配で、それらの勉強や工夫についても、つい消極的になってしまう。それが老化の一つの原因であることもわかっているが、いっぽうでは気力が失われたことも事実である。何とも困ったことだ。
豺狼のごとく群がる店じまいのとき。


前にも言ったことであるが、きょうも聖蹟桜ヶ丘で感じたので重出した。私のよく利用した「さくらや」のことである。ここで言う「店じまい」というのは、その日の閉店ではなく、店をやめてしまうこと。豺狼(さいろう)は、言葉通り「やまいぬ」と「おおかみ」。また、「欲の深い人」のことも言う。

店がつぶれてしまって最後の整理をするときなどは、安いので人が集まる。もしかしたら、人間にはダメになりかかったものに群がる心理が、あるのかもしれない。過去の生存競争が激しかったときの遺伝子の名残りだろうか。

同じようなことが、赤字ローカル線の廃止の場合にも言える。最後の日が、開業以来の大繁盛などということがある。まったく、愚かしいことであり、自分自身の醜い部分をさらけ出すので、私は大いに反省をする。
「こんなこと過去にもあった」ような気がする。


私が言うのは、大きな事件のことでない。日常の取るに足らない些細なこと。何かしようとして、ふと「こんなこと過去にもあった」ような気がするのである。それは、互いにまったく同じことではない。例えば、辞書でわからない文字を引く。同じ字を引くのではない。初めての文字のはずであるが、前にも引いたような気がするのである。

もうすこし具体的に言うと、道を歩いているとき。まだ通ったことがない道で、そんな気がすることが多い。「いつかどこかで」同じ体験をしたのだが、思い出そうとするとダメ。何とも、もどかいし気持ちがする。

既視感じゃないかとも考えるのだが、私のはもっと単純なこと。おそらく、同じパターンをまとめて記憶しているのであろう。だから、そこに少し違った箇所があっても、別の分類が思い出されるのではないだろうか。
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