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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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思いつき、次々まとめ生活指針。


単に思いついたことでも、私にとっては「健康」「老化予防」さらに「安心立命」に関しては重大事。そこで、自分自身が忘れないようにする工夫が必要だ。メモにしておいたり、ホームページやプログでもよい。しかし、私はYouTubeを利用することにした。

なぜならば、画像や音声を簡潔にまとめられるからである。むろん、文字の表示も可能であるが、ホームページのように長々とは書けない。そんなわけで、ふつうYouTubeの動画には単に記録だけではなく、美術的なものや音楽などが含まれる。

しかし、いくら名画や名曲を集めてみても、自分自身が健康でなければ仕方がない。そこで、ターゲットを健康・老化予防・安心立命として生活指針をまとめたら、変なYouTubeになってしまった。
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世の中に、多重支配の現実がある。


いつごろからだったろうか。世の中には、歴然とした多重支配の現実があることに、何となく気付いた。支配者と非支配者である。それは、単に資本家と労働者との関係のような単純な社会的問題ではない。

それは、あたかもニワトリが飼われているのと同じである。つまり、支配するものと支配されるものが、まったく別の次元の社会に住んでいる。被支配者が人間であっても、支配者は人間ではなく、別次元の存在である。

とっぴな考えであるかもしれない。それは神のような存在で、仮にフィアフィル魔亜尊と呼んでおこう。そして、そのFMがある目的のために人間を生かしているのではないだろうか。したがって、飼育している対象が無統制になっても困るし、また増えすぎたりしても不都合である。そんなことが事実であっても、人間には考えが及ばないということはなかろうか。
考えてみれば、愚かな日々の連続。


ここのところ、観音の研究をしている。「研究」というほどのことでないかもしれないが、まずどこにどんな観世音菩薩がおられるかの調査である。実際に、寺院を訪問してデジカメ写真を撮ってくる。

私の場合、寺院の本尊が何であるか、また宗旨がどうであるか、そのようなことは問題にしない。そして、観音が秘仏であったり、ご開帳日が決められていたり、また行っても見れなかったりするものは研究の対象としてはいない。ふつう境内に立っておられて、いつ行っても見れて、また写真を撮ってこれるもの。

よく、「そんなことをして何になるか?」という人がいる。それは、何に対しても言える言葉だから、私は適当にお茶を濁してしまう。考えてみれば、愚かな日々の連続かもしれないが、自分がよいと思えばそれでよいのだ。
たのしみは、観音さまを尋ねゆくとき。


書物やインターネットで、観音さまのおられる場所を知ると、さっそくに拝顔をしにゆく。まったく新しく完成をした観音さまの場合もある。例えば、青梅市の塩船平和観音(塩船観音寺)の場合がそうだ。かつてから観音さまはおられたが、四月には屋外に大観音が開眼した。そして、それを五月に行って見たのである。そんなわけで、感激は大きい。

また、今までに知らなかった観音さまを新たに知った場合。今までに都内の寺院は、かなり経巡(へめぐ)った。しかし、まだ私が行っていないところに、素敵な観音さまがおられることもあるに違いない。

観音さまは、もともとは男性というか、いわゆる性別を超えた存在であるが、それでも私は何となく女性をイメージする。そして、その出会いをまだ自分が若かったころのなつかしい記憶などと、不遜ながら重ね合わせてみるのだ。
人一人(ひとひとり)死ぬと、その後は整理が多い。


親しかった人のご家族が亡くなった。すると、急にその人は忙しくなった。亡くなった人の手続きなどがあるからでしょう。また、遺産があったり、物持ちであった場合などは、なおさら大変らしい。

葬儀などの一連の手続きが終わっても、それら以外にも多くの作業が残っているようだ。人が一人死ぬということは、死後かなりすることが残る。むろん、本人にはできない。遺族が分担をしてするわけであるが、そこにはいろいろと問題を生じる。

そんな意味で、私は自分が死んだときに、何も残さないようにしたい。とくに、借金があると大変である。葬式のときに来て、妻に「お宅のご主人に貸したお金は、いつ返していただけるのでしょうか」などということがないようにしたい。人一人ではなく、子ども一人を残してすべて死んだ家族の家で、一晩で鍋釜までなくなった話が『遠野物語』にあった。


現実の問題となる老いと衰え。


若いころには、そんなことを考えたことはなかった。しかし、古希を過ぎてから老いと衰えが、自分自身の問題であると考えざるをえなくなった。心細い限りである。

気持ちは若くても、身体は日に日に衰えていく。老いは、元来そのようなものらしい。老いたから衰えるのか、衰えたから老いるのか、そんなことはどちらでもよい。自分自身が何としてでも、老いと衰えを避けたいと思う。それが、実現不可能なこととわかっていても。

身体の衰えの心配は、すでに四十歳前後からあった。それでも、それなりに頑張ったものである。しかし、脳の衰え、つまり恍惚の人になったり、アルツハイマー病になる心配は、最近になってはなはだしい。なぜそんなことを言うかというと、親しかった回りの人たちが、次々とそうなっているから。つまり、現実の問題となってしまった人が、あまりにも多いからだ。
雨の日は行く場所もなく、こころ安らか。


ここのところ、寺院巡りをしている。大仏や観音を研究しているからです。とくに魚籃観音については、東京都内の寺院をすべてあたってみた。後になって思ったことだが、かなりスケジュールが大変だった。

しかし、雨の日は出かけるわけにはいかない。逆に、私にとっては休息日になる。それまでの写真や資料などをまとめたり、ホームページの更新をしたりする。また、朝もゆっくり休んでいられる。

そんな意味で、とくに行く場所もなく、こころがのびのびと安らかなのである。むろん、雨の日でも出かけることはできる。でも、デジカメの写りが悪くなってしまう。寺院の屋根と空との境界がぼやけてしまったり、境内にまします仏像のコントラストもよくない。だから、雨の日はどこにも出かけずに、それまでの整理などをこころ安らかにすることができるわけ。
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