rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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なつかしい人、久々に会って減滅。
なつかしい人に、ずいぶんと久しぶりに会うことがある。そして、たいがいの場合、想像に反して減滅をするのである。クラス会などに行ったりして、そのような経験をすることが多い。
それぞれに社会的には成功をしているのだが、必ずしも人間的に成長をしたとは言えないようだ。自分自身の立場や会社の利益を優先させたため、何となく我田引水になっているみたい。
少なくとも、記憶に残っている若い時代の清々しい面影を残していて欲しいと願ったのだが、そのような人は少ない。悪く言えば、表面の穏やかさの裏に狡猾さが潜んでいる。それが、社会の中で成功するための重要な基本であるから、仕方がないのかもしれない。再会をしなかったほうがよかったなどと、思うことが多いゆえんである。
なつかしい人に、ずいぶんと久しぶりに会うことがある。そして、たいがいの場合、想像に反して減滅をするのである。クラス会などに行ったりして、そのような経験をすることが多い。
それぞれに社会的には成功をしているのだが、必ずしも人間的に成長をしたとは言えないようだ。自分自身の立場や会社の利益を優先させたため、何となく我田引水になっているみたい。
少なくとも、記憶に残っている若い時代の清々しい面影を残していて欲しいと願ったのだが、そのような人は少ない。悪く言えば、表面の穏やかさの裏に狡猾さが潜んでいる。それが、社会の中で成功するための重要な基本であるから、仕方がないのかもしれない。再会をしなかったほうがよかったなどと、思うことが多いゆえんである。
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スパイダー・ソリティアやって、脳を鍛える。
デスクトップとノートパソコン両方に、Windows 7 Home Premiumが入っていて、スタートをクリックするとゲームもある。その中のスパイダー・ソリティアは老化予防にもってこいのゲームなので、私はときどきやってみる。
ちょっと疲れたときの気分転換にもよい。なるべく素早くカードを移動させる。もたもたしていては、いけない。シャッ・シャッと動かしていく。
もしもカードの移動ができないと思って迷ったときは、ゲームのヒントをやってみる。気がつかなかった意外なところがあったりもする。しかし、意味のない移動まで教えてくれるので、あまり中(あ)てにはならない。したがって可能な限り、自分自身の考えで移動を続けなければならない。
デスクトップとノートパソコン両方に、Windows 7 Home Premiumが入っていて、スタートをクリックするとゲームもある。その中のスパイダー・ソリティアは老化予防にもってこいのゲームなので、私はときどきやってみる。
ちょっと疲れたときの気分転換にもよい。なるべく素早くカードを移動させる。もたもたしていては、いけない。シャッ・シャッと動かしていく。
もしもカードの移動ができないと思って迷ったときは、ゲームのヒントをやってみる。気がつかなかった意外なところがあったりもする。しかし、意味のない移動まで教えてくれるので、あまり中(あ)てにはならない。したがって可能な限り、自分自身の考えで移動を続けなければならない。
ひっそりと暮らす日々には安らぎがある。
還暦を過ぎたころから、あまり交際をしなくなった。大仏・大観音を探したり、魚籃観音を訪ねたりすることはあるが、知人たちと会うことは少なくなった。親しかった人たちが、だいぶ亡くなったことも原因である。
いきおい生活は、何となくひっそりと暮らす日々になった。つまり、あまり人間関係がなくなったのである。すると、不思議なことに心に安らぎがやってきた。
わかったことは、対人関係には煩わしいことも含んでいることである。つまり、一人であれば疎(うと)ましさがなくなるのである。だから、昔から出家したり、山にこもったりするのであろう。西行も娘を縁側から蹴落とし、そのまま出家したという。何が、そのような行動をもたらす原因となったのであろうか。
還暦を過ぎたころから、あまり交際をしなくなった。大仏・大観音を探したり、魚籃観音を訪ねたりすることはあるが、知人たちと会うことは少なくなった。親しかった人たちが、だいぶ亡くなったことも原因である。
いきおい生活は、何となくひっそりと暮らす日々になった。つまり、あまり人間関係がなくなったのである。すると、不思議なことに心に安らぎがやってきた。
わかったことは、対人関係には煩わしいことも含んでいることである。つまり、一人であれば疎(うと)ましさがなくなるのである。だから、昔から出家したり、山にこもったりするのであろう。西行も娘を縁側から蹴落とし、そのまま出家したという。何が、そのような行動をもたらす原因となったのであろうか。
細胞やミトコンドリア、私の一部。
私が、皮膚で囲まれた一連の部分という概念は甘いだろう。外管・内管などと言える部分を中にもっているからである。例えば、口腔から肛門までは外管、毛穴は内管である。さらに、細胞やミトコンドリアのことを考えると、ヒトという種の概念が、地球全体から宇宙にまで広がっていくのではないか。
細胞は、生物を構成する形態上の基本単位。真核細胞では核があり核膜で細胞質とに分けられ、その細胞質は細胞膜でおおわれている。さらに、細胞質中にはミトコンドリアなどがいる。だから、職場・地域などを単位にする党の設けた末端組織を細胞などと言うこともある。
ミトコンドリアは(mitochondria)はギリシャ語、糸・粒の合成語。真核生物の細胞質中に存在する糸状の小器官。内外二重の膜に包まれて、呼吸およびエネルギー生成の場となる。細胞の核とは別に、DNA(デオキシリボ核酸)をもっていて、独自の分裂により増殖をする。糸粒体・糸状体・コンドリオソームなどとも言う。
私が、皮膚で囲まれた一連の部分という概念は甘いだろう。外管・内管などと言える部分を中にもっているからである。例えば、口腔から肛門までは外管、毛穴は内管である。さらに、細胞やミトコンドリアのことを考えると、ヒトという種の概念が、地球全体から宇宙にまで広がっていくのではないか。
細胞は、生物を構成する形態上の基本単位。真核細胞では核があり核膜で細胞質とに分けられ、その細胞質は細胞膜でおおわれている。さらに、細胞質中にはミトコンドリアなどがいる。だから、職場・地域などを単位にする党の設けた末端組織を細胞などと言うこともある。
ミトコンドリアは(mitochondria)はギリシャ語、糸・粒の合成語。真核生物の細胞質中に存在する糸状の小器官。内外二重の膜に包まれて、呼吸およびエネルギー生成の場となる。細胞の核とは別に、DNA(デオキシリボ核酸)をもっていて、独自の分裂により増殖をする。糸粒体・糸状体・コンドリオソームなどとも言う。
つらつらと考えたとき、私は何か?
だいぶ以前から、まったく奇妙なことを考え始めた。私と言うものの範囲が、わからないのである。
ふつう、皮膚に囲まれた一連の部分を身体と考える。しかし、胃もたれによる不消化になって、気づいたこと。最近はちょっと少し多く食べると消化するのではなく、何となく身体のほうが消化される感じ。何ともだるく、精神が溶けてしまうような感覚なのである。そこで、食後は三十分ぐらい横になる。すると、ずいぶん楽だ。
そういえば、人間はトポロジー的に考えると薄い皮の袋で閉ざされた一つの空間。つまり、浮き輪やドーナットのような概念の形状である。したがって、胃の中といえども元来は体外なのである。そのまん中の体外の部分が内側になって、消化器官として高度に発達をしただけである。さらに独立した細胞やミトコンドリアなどは、どうであろうか。
だいぶ以前から、まったく奇妙なことを考え始めた。私と言うものの範囲が、わからないのである。
ふつう、皮膚に囲まれた一連の部分を身体と考える。しかし、胃もたれによる不消化になって、気づいたこと。最近はちょっと少し多く食べると消化するのではなく、何となく身体のほうが消化される感じ。何ともだるく、精神が溶けてしまうような感覚なのである。そこで、食後は三十分ぐらい横になる。すると、ずいぶん楽だ。
そういえば、人間はトポロジー的に考えると薄い皮の袋で閉ざされた一つの空間。つまり、浮き輪やドーナットのような概念の形状である。したがって、胃の中といえども元来は体外なのである。そのまん中の体外の部分が内側になって、消化器官として高度に発達をしただけである。さらに独立した細胞やミトコンドリアなどは、どうであろうか。
捨てること意外に至難、貯めることより。
最近になってわかったことだが、身の回りのものを捨てることは、貯めるよりかなり難しい。若い時代に、せっせと貯め込んだたものを一緒くたにして捨てるには、強い意志が必要。品物によっては、何とも別れがたい気持ちになるものもある。
老いてくると、ものを多く持たないのがよいのではないか。必要な最小限のもので、日々事足りるようにするのが好ましい。まして、趣味や道楽で骨董品を集めるなど、私には性が合わない。
しかし、そんなことを言うと追求をされることがある。それは、ホームページやこのブログである。せっせと下らない内容を増やしている。そんなことをやめてしまえばよいのではあるが、仲間同士の意地もあって急にはやめれない。つまり、文章は減らずに増えているのである。
最近になってわかったことだが、身の回りのものを捨てることは、貯めるよりかなり難しい。若い時代に、せっせと貯め込んだたものを一緒くたにして捨てるには、強い意志が必要。品物によっては、何とも別れがたい気持ちになるものもある。
老いてくると、ものを多く持たないのがよいのではないか。必要な最小限のもので、日々事足りるようにするのが好ましい。まして、趣味や道楽で骨董品を集めるなど、私には性が合わない。
しかし、そんなことを言うと追求をされることがある。それは、ホームページやこのブログである。せっせと下らない内容を増やしている。そんなことをやめてしまえばよいのではあるが、仲間同士の意地もあって急にはやめれない。つまり、文章は減らずに増えているのである。
少しでも、できる間(あいだ)に努力をしよう。
元気なうちに、仕事や勉強、そして何かをしておこう。とくにパソコンを使った作業は、あまり長くは続けられないような気がする。なぜならば、目の調子がすでによくないからである。
足腰の心配もあるが、車椅子になっても何とかパソコンはできるのではないだろうか。しかし、そんなことよりも脳のことが心配だ。つまり、最近になって度忘れが多いので、もしかしたら自分も恍惚の人になっちゃうんじゃないかという恐れがある。
十年くらいの先輩を見ると、何となく記憶力が悪くなった人が多い。中には、矍鑠(かくしゃく)としている人もいることはいるが、たいがい少しボケていて、気力もあまりなくなっているようだ。喜寿(七十七歳)や傘寿(八十歳)ともなると、仕方がないことかもしれない。
元気なうちに、仕事や勉強、そして何かをしておこう。とくにパソコンを使った作業は、あまり長くは続けられないような気がする。なぜならば、目の調子がすでによくないからである。
足腰の心配もあるが、車椅子になっても何とかパソコンはできるのではないだろうか。しかし、そんなことよりも脳のことが心配だ。つまり、最近になって度忘れが多いので、もしかしたら自分も恍惚の人になっちゃうんじゃないかという恐れがある。
十年くらいの先輩を見ると、何となく記憶力が悪くなった人が多い。中には、矍鑠(かくしゃく)としている人もいることはいるが、たいがい少しボケていて、気力もあまりなくなっているようだ。喜寿(七十七歳)や傘寿(八十歳)ともなると、仕方がないことかもしれない。