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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ものすごく深いところにある駅ホーム。


一年ほど前に、シルバーパスを利用できるようになった。それからは、都営地下鉄を利用することが多い。とくに大江戸線には、お世話になる。そして、ずいぶん深いところに駅ホームがあることに気付く。

地下鉄も次々に開業して、便利になった。おそらく、後からできた路線は工事の関係で、従来の路線よりもさらに深いところを走っているのだろう。どこを走っても、安全であればよいのだが、問題はその乗り降り。

ホームまで行くのに、ちょっと大変である。中には、下りのエスカレータがないところもある。また、途中で階段を下らなければならない駅も、かなり多い。私は、足が悪いので階段は苦手。上りは何とかなるが、下りが大変。トントンと降りると、膝が痛んでしまうからだ。だから、エレベータがある駅はホームへ下りるときに、たいがい利用する。
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見苦しい内容多く、恥ずかしくなる。


このプログもそうであるが、とくに『青空のホームページ』である。自分なりにがんばって作ったつもりではあるが、後になって考えると、論理的に一貫していなかったり、何となく内容が曖昧であったりする。中には、意味不明のものさえある次第。

「日々記憶の断片」などと言うが、自分自身の覚えのような記事もある。そのようなときは、後で取り出せるように、検索用のボキャブラリーを入れてある。そのキーがニーモニックになっていたりして、読んでくださる人には唐突で、何のことかわからないかもしれない。

後で考えると、自分でも辟易するようなことが多い。その時、その時の感情で書き綴った断片だからである。それでも自分が「生きている証明」にしようと考えたことは事実。書くということが老化予防になるのだから、恥ずかしくてもしかたがない。
「捨身飼虎」「捨身羅刹」は、信じられるか?


釈尊の前生譚に、「捨身飼虎」「捨身羅刹」などがある。どちらも、私にとって印象深い。にわかには信じられない内容ではあるが、いろいろ考えてみると事実であったかもしれない。

「捨身羅刹」は、雪山で羅刹が詠んだ上の句に対して、下の句が知りたいと思う。教えてくれというと、腹が減ってダメだと言われる。そこで、その続きを聞いてから、自分自身を差し出すために高い木から飛び降りる。

「捨身飼虎」は、山中で飢えた虎の親子に出会う。その虎は死の寸前だったので、釈尊は自分自身を供養することにした。裸になって、虎の前に行った。しかし、虎は衰えていて食べようとしない。そこで、釈尊は竹で自分の身体を刺して血を流し、虎の食欲をそそって食べられたというのである。かなり印象強いエピソードで、法隆寺の玉虫厨子にも描かれているそうだ。
青梅(あおうめ)やらっきょうをする時期は過ぎたり。


暦の上では、この月の中旬が入梅だった。毎年、その時期には梅干を準備したり、らっきょうを酢漬けにしたりする。しかし、なぜか今年は時期を逃してしまった。

きょう、赤紫蘇(あかじそ)を一束買ってみたが、すでに青梅は売っていない。しかたがないので、妻に葉だけを選定してもらって、塩もみにでもしてみよう。らっきょうに関しても、とうとう買いそびれてしまった。したがって、残念ながら今年は梅干もらっきょう漬けもない。何となく、寂しい食卓になってしまう。

夏は、お腹にいろいろな菌が繁殖する。そんなわけで、梅干やらっきょうなどは健康的に好ましい食材。それも化学薬品を用いない自家製のものがよい。玄米の上に、梅干を載せるだけで健康食。慣れてくると、そのおいしさがよくわかる。自作の甘くないらっきょうも、やはり最高の食べ物でしょう。
インストール次々として、動作緩慢。


いろいろなことがしたいと思って、ツールを次々と買い込んだ。アニメ方式で健康PR作品を作りたくて、「DoGA CGA」「Flash Maker2」「六角大王」などもインストールした。また、音楽関係もいくつか組み込んだ。

しかし、考えてみればアニメなど作れるものでない。また、付帯音楽の作曲と言っても自分の能力ではムリである。そんなわけで、インストールして何回か動かしてみただけで、その後はすっかりご無沙汰。

いきおいメモリを逼迫して、動作速度まで緩慢になってしまった。作業用のDドライブは90パーセントも空いているのに、Cドライブは逆に残り10パーセント少々である。その結果、何となく重くなってしまった。それは、あたかも肥満児の動きが鈍いのと同じような理屈ではなかろうか。困ったことである。
研究を他人に譲る、拱辰禅師。


鉄眼禅師(てつげんぜんじ)は苦労の末に、『大蔵経』を出版した。大飢饉に苦しむ人々のために、途中で集めた資金を惜しげもなく投げ出したからだ。そんなことが、何回かあった。

いっぽう、中国の拱辰禅師(きょうしんぜんじ)は、実際には『景徳傳燈録』を著している。なぜ、そのように言うのか。拱辰禅師は苦労して、釈尊から宋の時代までの伝記をまとめた。それを都に持っていくとき、永安道原という人に貸したら、持ち逃げされてしまった。それで仕方なく、引き返したのである。

しばらくして、その本が出版された。しかし、拱辰禅師は「その書物が人々のためになれば、著者の名前などどうでもよい」と述べ、笑って訴訟などをしなかったと言う。
たのしみは寺町を行き、新たな発見。


寺町と言って、寺がまとまっているところがある。例えば、千歳烏山の寺町である。震災や火事などで、都心から寺が計画的に移転してきた場合が多い。そんな場所では、短い時間で多くの寺院に参拝できる。

なんでそのようなことを言うのかというと、最近になって多くの場所を回れなくなったからである。老いて、体力が減少したためかもしれない。だから、近くで多くを回れるのが楽しみなのである。

そんな寺院に、大仏や大観音があることも多い。特大級の大仏は少ないが、それでもかなり大きなものがある。涅槃像(寝釈迦)のこともあって、いずれもユニークである。観音も、ブロンズのものや石のもの、さらには木製のものもある。また、見慣れない「さざれ石」などもあって、興味がつきない。
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