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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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冬になる前に回ろう、プチさんの場所。


雪が積もったり、木枯らしが吹いたりすると、プチさん(プティ散策)がしにくくなってしまう。私は、バス停で待っていると身体が冷えてしまって、神経痛が出てくる。

そこで寒くなる前に、計画しているところを一巡してしまいたい。バス利用は便利だが、道路の事情によって運行時間が遅れてしまい、待たされることが多いことも理由の一つ。

また、デジカメの写りは、どんよりとした陽射しの日よりも、くっきりとした青空のほうがよい。冬の曇った日は、何となくピンボケやアクセントのない画像になってしまう。そんなわけで、冬になる前の秋晴れの日にはデジカメを持ってプチさんをする。むろん、出かけるときは自分自身の体調がよくなければならない。
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この記事は、言葉をメモし、忘れないため。


「日々記憶の断片」というタイトルに、「生活の知恵」というサブタイトルが付いている。さらに「独り言」とあって、「固定概念にはとらわれず、現時点で『生きている証明』をしようとした日々のお便り」などと。

しかし、正直なところ言葉をメモすることによって、忘れないようにするという老化予防の目的が含まれている。つまり、アルツハイマー病や認知症などに自分がならないための老化を予防する一方法でもあるのだ。

したがって、新句(十九音)は文学作品というよりも、むしろ個人的な記録の意味合いが強い。だから俳句のように下句を五音で言い切る技巧を避けて、七音にしてある。そのほうが言葉に融通性があって、作りやすいからである。ぜひ自分自身が『生きている証明』として、あなたも利用していただきたい。
何となく寺や社(やしろ)は心のルーツ。


寺院や神社を訪ねると、何となく心が和む。もしかしたら、私ばかりではなく、日本人の一般的な心象かもしれない。あなたは、どうでしょうか。

かつて、地域に問題が起こると、そこに集まったり、そこを拠点とした時代があったと思う。また、駆け込み寺などというのも、実際に存在した。

施療院、施薬院などという言葉が残っていることから、往時の想像ができる。鉄眼のような僧は飢饉のときに、そこを根拠として活躍をした。施無畏者が多くいた時代には、彼らの根拠地になった。実際に施無畏寺(せむいじ)というのが、和歌山県有田郡湯浅町にある。真言宗御室派の寺で、山号は補陀落山。明恵が創建した。私は、そんなことをおぼろげに知っているので、心が何となく和むのかもしれない。

チマローザ、ピアノソナタの軽やかな音。


チマローザのピアノソナタは古典派のものとは異なって、単一楽章のものが多い。そして、数分程度の短いもので、軽やかなものがほとんでである。

聞いていると、気分がさわやかになる。関孝弘の弾いた全八十八曲のアルバムをもっているが、何回聞いても飽きない。すばらしい演奏だからである。

スカルラッティのピアノソナタとも類似しているが、もっとシンプルで素朴な美しさがあるように感じる。いずれにしても、あまり演奏を聞く機会のない曲であるが、CDを持っているのでいつでも鑑賞できる。次々と可憐な素晴らしい曲が聞けるので、幸福である。フンメルのピアノソナタなどもよいが、やはり曲の素朴さからいえば、チマローザが秀逸である。
自分とは皮膚で囲まれ、閉じた構造?


自分を考えるときに、ふつうは皮膚で囲まれている閉じた一体構造の空間を思うだろう。しかし、そう単純なことであろうか。

ドーナットや浮き輪を考えると、わかりやすいかもしれない。なぜならば、真ん中にある空間が意味をもってくるからである。そして、口から肛門までがその部分と一体構造になった生物がいる。蛇などもトポロジー的には筒状のパイプと考えることができるし、ヒトの場合は口から肛門までが内側にありながら体外となる。

ヒドラという生物がいる。ヒドロ虫綱・ヒドラ科・ヒドラ属に属する腔腸動物で、体長は約1センチメートル。先端にある口の周囲に糸状の触手が数本生えているだけ。それでも雌雄異体で、再生力が強い。そんな動物でも、構造的には閉じたり開いたりして、外部から餌を取り込んでいる。


プラトンが「ソクラテス言う」と書いたことは?


いつも思うことであるが、歴史上の問題にあいまいなことが多いということ。事実が誇張されていたり、歪曲されている場合もあるからだ。

ソクラテスは、著作を残していない。実在をした人物で、かなりの人柄だったとは思うが、プラトンの記述やクセノフォーンの『ソクラテスの思い出』などから知るほかはない。しかし、クセノフォーンはプラトンとは異なる立場から師の言行を見たり聞いたりしたままに書き残している。

今となってはどうすることもできないが、そういうことは他にもあると思う。『新約聖書』などは、どうであろうか。また、『正法眼蔵』の「切に思うこと、必ず遂ぐるなり」などは、コピー機がなかった時代の書写をするときに、思いついて書き足したのであろう。著作権などという概念のなかった時代に自分自身の意見を原文に加えたり、誰かに言わすのは効果的であったかもしれない。
千社札作りてみたり、散華と名付く。


渡邊師からご教示をいただき、千社札(せんしゃふだ)をUさんにプリントしてもらった。散華(さんげ)に用いる蓮弁(れんべん)の形にしたので千社札とは言わずに、私はそれを散華札(さんげふだ)と呼ぶことにする。

デザインは、魚籃観音(ぎょらんかんのん)を現代版にしたストーリ「陜右の人たち」とした。それは、華筥(けこ、花籠とも書く)から僧が取り出して撒(ま)くのと同様に、花かごから健康を人々に分散したかったから。魚籃観音の魚篭(びく)には鯉が入っているというが、何となく生臭いので私は花にした。

渡邊師の言われるように、世の中には豺狼のような人が多い。人の不幸や弱点につけこむのである。迦陵頻伽(かりょうびんが)のように聞いていても飽きることのない美声によって、あまねく法を説く人は少ないようである。
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