rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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老いたらば、見ない、買わない、一人で遊ぶ。
まったく、みみっちく、年金生活者らしい独りよがりの話かもしれない。
「見ない」とは、ほとんど自分には関係がなくて、プラスにならない世界のことである。例えば、芸能人の秘密と言うかその日常の生活模様。
「買わない」とは、あまり自分に必要のなく、手に負えないだろう品物のことである。よくテレビ通販でやっている健康器具など。
なぜならば見ても買っても、それらはあまり意味のないことが多いから。
そこで、一人でも遊べる方法を考える。その一つが、ホームページ。見るよりも作るほうが、老化予防には役立つ。下らないことでも、一向にかまわない。
多磨霊園を散策して、「墓百選」を自分なりに作ったり、身近な川を歩いて「美川(びせん)コンクール」を開いてもよい。そんなことは意味がないというが、それはそれなりに自分自身の楽しい趣味の世界になるだろう。
まったく、みみっちく、年金生活者らしい独りよがりの話かもしれない。
「見ない」とは、ほとんど自分には関係がなくて、プラスにならない世界のことである。例えば、芸能人の秘密と言うかその日常の生活模様。
「買わない」とは、あまり自分に必要のなく、手に負えないだろう品物のことである。よくテレビ通販でやっている健康器具など。
なぜならば見ても買っても、それらはあまり意味のないことが多いから。
そこで、一人でも遊べる方法を考える。その一つが、ホームページ。見るよりも作るほうが、老化予防には役立つ。下らないことでも、一向にかまわない。
多磨霊園を散策して、「墓百選」を自分なりに作ったり、身近な川を歩いて「美川(びせん)コンクール」を開いてもよい。そんなことは意味がないというが、それはそれなりに自分自身の楽しい趣味の世界になるだろう。
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車内にて、席譲られて「老い」を認識。
最近になって、電車の中などで席を譲られることがある。とくに、シルバーシートの近くではそう。やはり、他人の目から見ると老人なのであろう。
そもそも、自分が老人などと感じ始めたのは、いったいいつごろからだろうか。やはり、入院をして手術を受けたときから、少しずつ始まったみたい。退院後の経過がよくなく、いつまでもパラサイトが身体から除けなかったせいであろう。
今でもそうであるが、ちょっとそれは「扶養家族が多いので、働いても働いても金が足りない」などという状態に、似ているのかもしれない。つまり、そんな状態が顔に出て、とくに若い人が見たときに「疲れている哀れな老人」に見えるらしく、席を譲ってくれるのだろう。
最近になって、電車の中などで席を譲られることがある。とくに、シルバーシートの近くではそう。やはり、他人の目から見ると老人なのであろう。
そもそも、自分が老人などと感じ始めたのは、いったいいつごろからだろうか。やはり、入院をして手術を受けたときから、少しずつ始まったみたい。退院後の経過がよくなく、いつまでもパラサイトが身体から除けなかったせいであろう。
今でもそうであるが、ちょっとそれは「扶養家族が多いので、働いても働いても金が足りない」などという状態に、似ているのかもしれない。つまり、そんな状態が顔に出て、とくに若い人が見たときに「疲れている哀れな老人」に見えるらしく、席を譲ってくれるのだろう。
自(おの)ずから、求められないことを続ける。
誰からも求められたことではないのに、意味のないことをせっせと続ける。そんな日々でも、いいではないか。
文学にしたって、美術や音楽などの分野でも、プロは自分の中にあるものが次々と自ずと出てくるのであろう。
しかし、私は文学や美術、そして音楽など、いわゆる芸術には疎(うと)い。残念ながら、とりわけ感性があるわけではない。だから、出てこない。
私は、「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」のために、文学らしきこと、美術もどきのこと、そして音楽まがいのこと、そんなことをやってみた。そして、それは結構それなりに楽しい経験になった。
言うなれば、自分自身が必要だったからしたことで、求められなくてもよいのである。
誰からも求められたことではないのに、意味のないことをせっせと続ける。そんな日々でも、いいではないか。
文学にしたって、美術や音楽などの分野でも、プロは自分の中にあるものが次々と自ずと出てくるのであろう。
しかし、私は文学や美術、そして音楽など、いわゆる芸術には疎(うと)い。残念ながら、とりわけ感性があるわけではない。だから、出てこない。
私は、「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」のために、文学らしきこと、美術もどきのこと、そして音楽まがいのこと、そんなことをやってみた。そして、それは結構それなりに楽しい経験になった。
言うなれば、自分自身が必要だったからしたことで、求められなくてもよいのである。
だらだらといつまでもする癖、ほどほどに。
ソリティア(トランプ一人占い)などをすると、なかなか上がれない。
そんなときに、私は三回でやめる。一回するごとに用意したチップ(小片)を除いていって、それがなくなったら潔(いさぎよ)くやめる。
うまくいかなくても、そこで「もう一回」などとは言わないようにする。
そうすると、だらだらと際限がなくなってしまうからだ。
もしかしたら、人生も同じかもしれない。
「姥捨て山」や深沢七郎の『楢山節考』ではないが、不要になったものを捨ててしまうほど思い切った時代も過去にあったのだろう。貧しかったのかもしれない。インドの『ジャータカ』などにも、同様な話がある。
もっとすごいのは、楳図かずおの『イアラ』に出てくる女性を育てた老婆。自分で噴火口に登って行って、飛び降りてしまう。その『イアラ』全5巻から、私は多くを学んだ。
ソリティア(トランプ一人占い)などをすると、なかなか上がれない。
そんなときに、私は三回でやめる。一回するごとに用意したチップ(小片)を除いていって、それがなくなったら潔(いさぎよ)くやめる。
うまくいかなくても、そこで「もう一回」などとは言わないようにする。
そうすると、だらだらと際限がなくなってしまうからだ。
もしかしたら、人生も同じかもしれない。
「姥捨て山」や深沢七郎の『楢山節考』ではないが、不要になったものを捨ててしまうほど思い切った時代も過去にあったのだろう。貧しかったのかもしれない。インドの『ジャータカ』などにも、同様な話がある。
もっとすごいのは、楳図かずおの『イアラ』に出てくる女性を育てた老婆。自分で噴火口に登って行って、飛び降りてしまう。その『イアラ』全5巻から、私は多くを学んだ。
あまりにも「百舌の速贄」、多くはないか?
人生において、次々に新しいことをする。そして、前にやったことをそのまま放置してしまう。「継続は力なり」などとは、まったく考えない。つまり、「百舌の速贄」(もずのはやにえ)である。
しかし、心臓や肺の機能などのことを考えるまでもなく、百万陀羅尼ではないが反復・継続が大切なのではないか。
宮本武蔵が、
<千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。>
と言ったことなども印象的。さらに、
<自分の考えでしたことに関しては、後で悔やまないようにすべきだ。>
とも言っている。
私も、まったくその通りだと思う。
人生において、次々に新しいことをする。そして、前にやったことをそのまま放置してしまう。「継続は力なり」などとは、まったく考えない。つまり、「百舌の速贄」(もずのはやにえ)である。
しかし、心臓や肺の機能などのことを考えるまでもなく、百万陀羅尼ではないが反復・継続が大切なのではないか。
宮本武蔵が、
<千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。>
と言ったことなども印象的。さらに、
<自分の考えでしたことに関しては、後で悔やまないようにすべきだ。>
とも言っている。
私も、まったくその通りだと思う。
オシッコとウンコをする場、ないのが不思議。
テレビドラマや小説などに、飲み物を飲んだり、食事をするシーンがしばしば出てくる。しかし、その結果であるオシッコとウンコの場は、非常に少ない。オシッコやウンコは、生理的にも大切な行動であるが、なぜか忌諱したために表面には出てこない。何となく、隠れてすることのようである。
そういう意味では、セックスと似ているのかもしれない。
しかし、セックスの場はあからさまに描写をしないまでも、歌舞伎や映画にも多くある。日本語では「濡れ場」などと言う。
また、太宰治の『斜陽』などには最後の貴族であった母が、庭の草陰から立ち上がって「いま何をしていたか」を私(主人公の語り手)に聞くくだりがある。しかし、具体的な行為の記述はなかったと思う。
ウンコはともかく、オシッコを汚いとする考えは間違っているのではないか。
テレビドラマや小説などに、飲み物を飲んだり、食事をするシーンがしばしば出てくる。しかし、その結果であるオシッコとウンコの場は、非常に少ない。オシッコやウンコは、生理的にも大切な行動であるが、なぜか忌諱したために表面には出てこない。何となく、隠れてすることのようである。
そういう意味では、セックスと似ているのかもしれない。
しかし、セックスの場はあからさまに描写をしないまでも、歌舞伎や映画にも多くある。日本語では「濡れ場」などと言う。
また、太宰治の『斜陽』などには最後の貴族であった母が、庭の草陰から立ち上がって「いま何をしていたか」を私(主人公の語り手)に聞くくだりがある。しかし、具体的な行為の記述はなかったと思う。
ウンコはともかく、オシッコを汚いとする考えは間違っているのではないか。
「記憶帖」「生きる証明」、日々の方便(たつき)に!
「記憶帖」は、三木アヤ先生の歌集にあった名前。
「生きる証明」は、宮柊二先生が言っておられた言葉。
「方便」(たつき)は、「たずき」とも言って、「生活の手段など、つまり生計」のこと。そこに、私は「記憶帖」や「生きている証明」を取り入れたり、またその場にしてしまう。
そこは、「事をなすためのよりどころ」自体であるからだ。
さらに、「様子(ようす)や状態などを知るためのきっかけ」でもある。
古くから言われた言葉で、『万葉集』(四〇七八〉にも
<言ふすべのたつきもなきは 我が身なりけり>
とある。
「記憶帖」は、三木アヤ先生の歌集にあった名前。
「生きる証明」は、宮柊二先生が言っておられた言葉。
「方便」(たつき)は、「たずき」とも言って、「生活の手段など、つまり生計」のこと。そこに、私は「記憶帖」や「生きている証明」を取り入れたり、またその場にしてしまう。
そこは、「事をなすためのよりどころ」自体であるからだ。
さらに、「様子(ようす)や状態などを知るためのきっかけ」でもある。
古くから言われた言葉で、『万葉集』(四〇七八〉にも
<言ふすべのたつきもなきは 我が身なりけり>
とある。