rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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清貧の日々の方便(たつき)に幸せがあり。
人生も終わりに近くなって、清貧の中には心の安らぎがあることがわかった。したがって、方便(たつき)は必要最小限にしたい。
方便(たつき)は「たずき」「たづき」とも読み、もともと手付き(たつき)の意味。つまり、生活の手段や生計のことである。
さらに、何かをするためのもとになることを言う。つまり、様子(ようす)、模様(もよう)、状態など。
『万葉集』に、
<言ふすべの方便もなきは 我が身なりけり>(四〇七八)
とある。
人生も終わりに近くなって、清貧の中には心の安らぎがあることがわかった。したがって、方便(たつき)は必要最小限にしたい。
方便(たつき)は「たずき」「たづき」とも読み、もともと手付き(たつき)の意味。つまり、生活の手段や生計のことである。
さらに、何かをするためのもとになることを言う。つまり、様子(ようす)、模様(もよう)、状態など。
『万葉集』に、
<言ふすべの方便もなきは 我が身なりけり>(四〇七八)
とある。
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あくせくと何を求めて日々を過ごすか?
いつも不思議に思うことである。
いったい何を求めて、自分は生きているのであろうか。
あくせくと追われるような気持ちがするのはなぜか。
それは、一種の脅迫概念。教育によってつちかわれた一種の考え方にすぎない。むろん、その脅迫概念は人間の本能でもあろう。
しかし、それを煽(あお)って互いに競争をさせるところが、何とも不自然でもある。ヨーロッパでは中世の「宗教」による支配から、近世になって「教育・学問」などによる支配に移行したことが明白である。
特権階級のマインドコントロールによって、形成されている社会構造が何となく見えてくる。
あたかも、家畜が牧場主に飼われているような。
いつも不思議に思うことである。
いったい何を求めて、自分は生きているのであろうか。
あくせくと追われるような気持ちがするのはなぜか。
それは、一種の脅迫概念。教育によってつちかわれた一種の考え方にすぎない。むろん、その脅迫概念は人間の本能でもあろう。
しかし、それを煽(あお)って互いに競争をさせるところが、何とも不自然でもある。ヨーロッパでは中世の「宗教」による支配から、近世になって「教育・学問」などによる支配に移行したことが明白である。
特権階級のマインドコントロールによって、形成されている社会構造が何となく見えてくる。
あたかも、家畜が牧場主に飼われているような。
すぐ疲れちゃう体質に、いつしかなりぬ。
若いころには考えられなかったことであるが、ここのところ疲れが出てしまう。ちょっと歩いたりすると、何となく先に進むのがいやになる。
つまり、何かをすると疲れをすぐに感じてしまうのだ。
おそらく、身体が弱くなっているためであろう。
ふつう、日中に眠くなることなどなかった。それが、電車に乗って座ると、とろとろと眠い。うっかりすると、下車駅を寝過ごしてしまう。
どうも愚痴ったらしい言い訳だが、やはり加齢による変化なのだろうか。私の場合、体内のパラサイトが大きな負荷になって関係をしているようにも思う。疲れてしかたがないのは、寄生しているものにまでエネルギーを取られてしまうからかもしれない。どうも、困ったことである。
若いころには考えられなかったことであるが、ここのところ疲れが出てしまう。ちょっと歩いたりすると、何となく先に進むのがいやになる。
つまり、何かをすると疲れをすぐに感じてしまうのだ。
おそらく、身体が弱くなっているためであろう。
ふつう、日中に眠くなることなどなかった。それが、電車に乗って座ると、とろとろと眠い。うっかりすると、下車駅を寝過ごしてしまう。
どうも愚痴ったらしい言い訳だが、やはり加齢による変化なのだろうか。私の場合、体内のパラサイトが大きな負荷になって関係をしているようにも思う。疲れてしかたがないのは、寄生しているものにまでエネルギーを取られてしまうからかもしれない。どうも、困ったことである。
プチさん(プティ散策)は、老いてもできる楽しい日課。
高齢になると、何かと面倒になる。そして、日々の生活などもだらしなくなることが多い。そうかと言って、老人センターなどへ行ってみても、誰かから学べるようなことはあまりない。むしろ、「あんなふうには、なりたくない」などということを私は学習体験するのである。
そこで、一人で街へ出てみる。
行き慣れたところでもよい。しかし、ちょっと遠くへ行ってみるのも楽しい。ささいな発見が待っている。体調の悪くならない程度に、数キロ歩いてみてもよいでしょう。
つまり、一人でできる楽しみが「プチさん」(プティ散策)である。あまり費用もかからないし、また生活の一部として手軽にできる。そんなことで、それを晴れた日の日課に取り入れてしまうと、毎日の楽しみが増すでしょう。
高齢になると、何かと面倒になる。そして、日々の生活などもだらしなくなることが多い。そうかと言って、老人センターなどへ行ってみても、誰かから学べるようなことはあまりない。むしろ、「あんなふうには、なりたくない」などということを私は学習体験するのである。
そこで、一人で街へ出てみる。
行き慣れたところでもよい。しかし、ちょっと遠くへ行ってみるのも楽しい。ささいな発見が待っている。体調の悪くならない程度に、数キロ歩いてみてもよいでしょう。
つまり、一人でできる楽しみが「プチさん」(プティ散策)である。あまり費用もかからないし、また生活の一部として手軽にできる。そんなことで、それを晴れた日の日課に取り入れてしまうと、毎日の楽しみが増すでしょう。
マンタとはマントの意味で、不思議な魚。
水族館の大水槽などに、マンタという魚がいる。見ていると、悠々と泳いでいて何とも不思議な姿である。海底の砂などにもぐるヒラメはともかく、たいがいの魚は胴が丸く流線型である。
マンタ(manta)はラテン語で、和名はオニイトマキエイ。エイ類で、全長約6~7メートルの大形魚。しかし、食べ物は微小なプランクトン。大きな口から大量に吸い込む。
いつも動いているのは、動いていないと呼吸ができないかららしい。その鰓(えら)の構造から、そうなったのかもしれない。
また、マンタは魚でありながら交尾をするという。そして、卵ではなく親と同じ格好をした子を産むという。
水族館で、いつまでみていても飽きない魚である。
水族館の大水槽などに、マンタという魚がいる。見ていると、悠々と泳いでいて何とも不思議な姿である。海底の砂などにもぐるヒラメはともかく、たいがいの魚は胴が丸く流線型である。
マンタ(manta)はラテン語で、和名はオニイトマキエイ。エイ類で、全長約6~7メートルの大形魚。しかし、食べ物は微小なプランクトン。大きな口から大量に吸い込む。
いつも動いているのは、動いていないと呼吸ができないかららしい。その鰓(えら)の構造から、そうなったのかもしれない。
また、マンタは魚でありながら交尾をするという。そして、卵ではなく親と同じ格好をした子を産むという。
水族館で、いつまでみていても飽きない魚である。
体内に、日和見菌がいることを知る。
日和見菌(ひよりみきん)とは、日和見感染をする菌。つまり、普通は病原性を示さない菌が、身体の抵抗力が弱まったときに感染をするのである。
私たちの糞便には、1グラムあたり3000~5000億個の細菌がいる。ふつう、便の半分くらいは細菌。それらの細菌の大半は、腸の中に住んでいる。腸内には200~300種類ぐらいの細菌が100兆個も住みついている。それらは、体調や健康状態との関わりで「善玉菌」「悪玉菌」「日和見菌」などに分ける。
腸内にいる「善玉菌」と「悪玉菌」の関係は、善玉菌が増えると悪玉菌が減り、善玉菌が減ると悪玉菌が増加するという。
善玉菌には、ビフィズス菌・アシドフィルス菌・ガセリ菌・オリゴ糖などがある。
悪玉菌は、大腸菌・ウェルシュ菌・ブドウ球菌など。
日和見菌は、緑膿菌(MRSA感染症)・レジオネラ菌・カンジダ・クリプトコッカス・ヘルペス・トキソプラズマ・クリプトスポリジウムなど。
日和見菌(ひよりみきん)とは、日和見感染をする菌。つまり、普通は病原性を示さない菌が、身体の抵抗力が弱まったときに感染をするのである。
私たちの糞便には、1グラムあたり3000~5000億個の細菌がいる。ふつう、便の半分くらいは細菌。それらの細菌の大半は、腸の中に住んでいる。腸内には200~300種類ぐらいの細菌が100兆個も住みついている。それらは、体調や健康状態との関わりで「善玉菌」「悪玉菌」「日和見菌」などに分ける。
腸内にいる「善玉菌」と「悪玉菌」の関係は、善玉菌が増えると悪玉菌が減り、善玉菌が減ると悪玉菌が増加するという。
善玉菌には、ビフィズス菌・アシドフィルス菌・ガセリ菌・オリゴ糖などがある。
悪玉菌は、大腸菌・ウェルシュ菌・ブドウ球菌など。
日和見菌は、緑膿菌(MRSA感染症)・レジオネラ菌・カンジダ・クリプトコッカス・ヘルペス・トキソプラズマ・クリプトスポリジウムなど。
つきつめて考えてみれば、すべては「空」。
いったい、何のことか?
ここでいう「空」とは、私の考えている一つの概念である。
『般若心経』の「空」とも、ちょっと違う。
それでは、どういうことか。なかなかうまく説明ができない。
しかし、簡単に言ってしまうと、自分自身をトポロジー的に考えて一つの「外管」という開いたパイプ状のものと考える。そして、それを「内管」という閉じているパーツとしての空間に分けて考えてしまう。
すると、それに「外管」までを含まぬ空間が、いわゆる「空」なのである。
わざわざ位相力学まで持ち出すことはなく、単に感覚でも理解できる。つまり、自分自身が一つの空間に溶け込んでいるということが。
そして、その場を「空」というのである。
いったい、何のことか?
ここでいう「空」とは、私の考えている一つの概念である。
『般若心経』の「空」とも、ちょっと違う。
それでは、どういうことか。なかなかうまく説明ができない。
しかし、簡単に言ってしまうと、自分自身をトポロジー的に考えて一つの「外管」という開いたパイプ状のものと考える。そして、それを「内管」という閉じているパーツとしての空間に分けて考えてしまう。
すると、それに「外管」までを含まぬ空間が、いわゆる「空」なのである。
わざわざ位相力学まで持ち出すことはなく、単に感覚でも理解できる。つまり、自分自身が一つの空間に溶け込んでいるということが。
そして、その場を「空」というのである。