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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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『羅生門』の実物?を見た、大きなもんだ!


このあいだ、府中駅から多磨霊園駅まで歩いてみた。そのとき、東郷寺があった。とくに、そこへ行きたいとは考えてなく、たまたまプチさん(プティ散策)の途中。

そして、はっと気付いた。この大きな山門は、いつか見たことがある。その威容さ。すぐに思い出した。『羅生門』という映画に使われていたものだ。

実際には、『羅生門』ではなく『藪の中』であったと思う。しかし、そんなことはどうでもよい。とにかくこの山門は、私がかつて映画で見た記憶に残る風景を構成する建物なのである。実に堂々として大きな門。もしかしたら、「キエフの門」と匹敵するのではないかなどとも考えてもみた。

プチさん(プティ散策)には、そんな発見があって楽しい。

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素人の域を出ずとも、自分は自分。


展覧会に行くと、凌駕した作品に圧倒されることがある。音楽界に行くと、卓越した演奏に驚き入ってしまいがち。そして、あたかも充実した時間が過ごせたなどと、つい考えてしまう。

しかし後で考えると、そのような感激は一時的なものが多い。なぜならば、そのような芸術を理解できないからである。正直言って、自分には消化ができない。つまり、消化不良を起こす。

自分自身が、そのような次元に昇華できないばかりでなく、自信まで失ってしまう。それどころか、昇華熱でもって自分自身を焼いてダメにしてしまう。

やはり、素人の域を出なくても、自分自身に合ったレベルがよいことが次第にわかってきた。評価をするのは、結局は自分自身だからである。


『冬の旅』、身にしみじみと味わいがあり。


シューベルトの『冬の旅』は、私の大好きな歌曲。聴けば聞くほど、味わいがある。そして、それが次第に深まっていく。

いつも手持ちのフィッシャー=デスカウの盤などで聴くが、きょう(2008年4月14日、雨の月曜日)はBS102、バリトンのクリスティアン=ゲルハーヘルで聴いた。ピアノは、ゲロルト=フーバーである。

歌詞が、字幕で出るのも素晴らしい。ピアノ伴奏も、鮮やか。とくに、最後の「辻音楽師」。24曲目であっても、疲れた様子はなく、改まってものすごく真剣な顔付きで歌っていた。

<誰も耳をかたむけない。目もくれない。皿は、いつまでも空(から)。>
すべてをあるがままに受け入れる。そして、ふと聴いている自分自身をそこにエンパシー(empathy=感情移入)して、つくづく考えてしまうのである。

死んだとき、妻がうろたえないようにする。


これでは、ちょっと舌足らずかもしれない。
つまり、「私が死んだときに後に残った妻が、何をどうすればよいかなどで迷ったりしないような配慮が、ぼつぼつ必要な時期になった」ということ。

例えば、葬式に来て「ご主人に貸した五百万円は、いつ返してくれますか?」などと言って、未知の人が詐欺をしようとするケースが増えているらしい。
どこに何があるかとともに、貸借などもリストアップしておく必要があろう。

柳田国男の『遠野物語』に出ていた話。
茸(きのこ)を食べて、子ども一人を残して一家が亡くなったときに、村人が次々来て、「これは、私が貸したものだ」とか「生前にくれると約束した」などと言い、糂汰瓶(じんだがめ)一つ残らず持って行ってしまった。

もっとも、兼好法師の『徒然草』(第九十八段)には「後世を思う者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持っちゃダメ。」というくだりもあるが。
老いたらば、何をするにも簡素にしたい。


若いころは、「あれもしたい」「これもしたい」と際限がなかった。
しかし、老いてくると「そうはいかない」。
つまり、体力が要求に追いつかないからである。

そこで、日々の生活を簡素にしていく必要がある。
持ち物などは、死んでしまったら二束三文。あまりため込んでも、仕方ない。それどころか、後に残った人たちの笑いものになってしまう。

でも、私の場合。どうしても、簡素にできないものがある。
それは、プログとホームページ。いっそのことやめてしまおうかと考えたこともある。しかし、「生きている照明」という自分自身の目的があるので、そう簡単にはやめれない。

そんなわけで、手数だけでも簡素にする方法を模索しているのだが、……
カンチレバ、膝の痛みを早めるばかり。


最近、リュックを背負っている人が多い。誰かが始めた、無責任な流行であろう。その結果、しばらくするとほとんどの人が膝を痛めてしまう。

カンチレバ(cantilever)とは、「片持ち梁(ばり)」とも言って「ト」の形のようになっている梁(はり)である。つまり、「ト」の縦棒から横にはみ出している部分をバランスを取って支える。力学的には、不安定きわまりない。

そもそも人間が立っていること自体、不自然で不安定な姿勢。なぜならば、元来は「梁」(はり)として作られた背骨を「柱」として使っているからだ。

当然のことながら、加齢とともにダメージがある。とくに重力を支える膝の部分。それをわざわざ早めるために、リュックを背負う。軍隊などの重装備なら仕方がないが、ハイキングなどで荷を背負うのは愚かなことと思う。

本当は、荷物を頭に載せるのが力学的に好ましい。しかし、不安定になるので手で持つ。背負うと両手が使えるようになるので、さらなる人類の進化が、もしかしたら数万年後にあるかもしれない。



コツコツと続けてみたり、プログの記述。


誰も見ぬままにとでも、言ってよいかもしれない。それでも、自分自身が「生きている証明」としてプログを続けている。プログになる前のメール本文方式のときから数えてみると、今日で4500回をすでに越えた。

それはまったく愚かしいこと、そしてムダなことかもしれない。
でも、個人の日記のことを思えばよろしい。読んでもらうためにインプットしているのではなく、自分自身のメモとして文章を残しているのである。

その文章の内容はともかく、インターネット上では操作が簡単。とくに、検索の機能が優れている。以前は自分自身の内容にハードディスク内の索引を作ったが、最近ではウェブ内でグーグルがほとんど拾ってくれる。したがって、どこに何を書いたかなどを後で簡単に調べることができる。

何ともありがたく、すばらしいシステムである。
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