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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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『落歯』とは韓愈の詩なり、老いの現実。


韓愈(かんゆ 768~824)は、中国唐時代の官吏・詩人。
仏教を保護した皇帝が短命であったことから、仏舎利を批判して『論仏骨表』(仏骨を論ずる表)を皇帝に奉って、左遷されたりもした。

しかし、韓愈の詩には、ユーモラスなものがある。

<去年一牙(いつが)を落とし、今年一歯(いっし)を落とす。
俄然として落つること六七(ろくしち)
落つる勢ひ殊(こと)に未だ已(や)まず
余の存するものは皆動揺し、
尽(ことごと)く落ちて応(まさ)に始めて止(や)むべし。>

まったく、そのとおりだと私(rik)も思う。
幸か不幸か、私はまだ親不知(おやしらず)四本と八重歯(やえば)一本、つまり五本を失っただけであるが、同じ年の友達が、ほとんど総入歯になっていることなどからも。
そんな状況で私は、残った歯のメンテナンスに月に二回、必ず歯医者さんに行かねばならない。



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さまざまな方法があり、話しと治し。


バロン吉本の『徒然草』を読んでいたら、次のような記述があった。
教養ある者の話し方は、人がたくさんいても、その中の一人に向かって話すようにするもので、自然と他の者も耳をかたむけるものである。
(第五十六段62ページ)

(盛親僧都は)また、どんな病気にかかっても、親芋をたくさん食べることによって、治してしまうのだそうです。
(第六十段68ページ)

『法華経』や『般若心経』などでも、シャーリプトラ一人に話す形をとっている。だから、私には関係ないと言うならば、シヤーリプトラは死んでしまったので経典は無意味。グループメールなどでも、同じだろう。

しかし、いっぽうの大食いをして病気回復を求めるのは、ちょっとムリ。やってみると、とても成功しにくいことがわかった。

ぶつぶつと言い始めたら、注意が必要!


最近になって街や電車の中で、よく見かける。わけのわからないことをぶつぶつと独り言。突然、大声になったりする。最初、携帯電話をかけているかと思ったが、そうでない。話し相手がないのに、何かを言っている。

友達の医者に聞いてわかったことだが、どうやら精神的に異常が生じているらしい。話しているだけならいいが、病状が進むと刃物を振り回したりすることもあるらしい。

まったく、困ったことである。
しかし、である。ここのところ、私は度忘れ・失念などが激しい。そのうち、精神的に異常をきたしてしまうのではないか。そんなことを恐れている。

OTさんの父上は、帝大卒のエリートで弁護士を長く勤めた立派な人であったが、晩年になって包丁を振り回して奥さんに怪我をさせたと息子さんが嘆いていた。どうして、そのようなことが起こるのだろうか。

何となく、七福神を回ってみたり。


ここのところ、身近な場所の七福神を回って参拝をしてみた。苦しいときの神頼みとは、よく言ったものだ。体調があまりよくないから、そんなことを思い付いたのかもしれない。

と言っても、面倒なことは大嫌い。そこで、一ヶ所で七柱の福神様がましますところだけ。八箇所。

観蔵院七福神(多摩市東寺方)
洗心禅院七福神(八王子市高尾町)
雲龍寺七福神(八王子市山田町)
ほほえみ七福神(柴崎・光照寺)
福寿殿の七福神(三鷹・井口院)
高蔵寺七福神(町田市三輪町)
成子天神七福神(新宿区西新宿)
福生七福神(福生市・熊川神社)

身近にも、探してみれば結構あるもんだ。
さびしさに耐えて生きたし、西行のよう。


西行の短歌。『新古今和歌集』「巻六冬歌」である。

<さびしさに たへたる人の またもあれな 庵(いおり)並べむ冬の山里>

まったく一人になりたいとは言っていない。おそらく、その意味は
「私(西行)と同様に、このような寂しさに耐えて暮らしている人がいればいいんだが。そうしたら、この山里に庵を並べて住めるんだがなぁ。」
と詠嘆をしているのではないか。

すべてを捨てて出家をしたわけであるが、自然の寂しさの中にあって、ふと人が恋しくなった西行の心の奥底が何となく感じられる。もしかしたら、西行は鴨長明ほどにも、心が強くなかったのかもしれない。

私(黒田康太)も、ぼつぼつ孤独に耐える心を養いたい。とくに、死後のことを考えて。徒党をなして生きているのは、自分が弱いからであろう。人を頼るのである。
親を頼り、先生を頼る。医者を頼り、経営者を頼る。挙げ句の果ては、教祖などを頼る。しかし、いったん自分が被害者や不幸になると、責任を人になすりつける。それならば、最初から人を頼らないほうがましだ。

死んだ後(あと)、何も残さず、忘れられたし。


死んだ後に、何とかして名を残したいと思う人が多い。しかしまれには、反対の人もいる。高山樗牛は<死後の盛名何するものぞ、如(し)かず生前一杯の酒。>と書いている。
また、生きている間に金を貯めたいなどとも思う。逆に、借金だらけになって死ぬ人もいる。
しかし、そのようなことを考えること自体も無意味であろう。

第一、生きているということと死んでしまったということとの区別が分かっていないのではないか。
金は、生活をするために必要なもの。また、名は互いに識別をするためのものだ。したがって、そのように考えると、わからないままに物を欲しがる子どもと同じ。愚かなことである。

莫大な遺産を残して死ぬと、なかなか成仏ができないという。そんなことは、バカらしい考えかもしれないが、何となくわかるような気もする。物に執着があったり、体面ばかりを考えるのは貧しかった時代の本能のはたらきと、異常に発達をしたヒトの脳のもたらす幻影なのであろうか。
キラキラとまばゆくばかり、月光注ぐ。


新句(十九音)は、過去の記録でもよい。老化予防の目的もあるからだ。
2007年12月24日(振替休日)だった。
満月である。

私の部屋には、カーテンがない。昼は日光が差して暑いほどであるが、夜は月光が入ってくる。とくに、晴れた日には外の景色や夜空が美しい。

東京のこの地方では、あまり星が見られなくなった。その代わり、人工衛星が光っている。また、横田基地へ行く飛行機の航路らしく、ときどき上空を行く。かなりの高度である。

夜に寝付かれない日は、ガラス越しに戸外を見ている。
昼間は、ダイサギなどが目の高さで飛んでいるが、夜は何も見えない。ただ、空に光るものがあるのがわかる。とくに満月のときの部屋は、明るいほど。でも、室内は20度前後で寒くない。
想像は、宇宙の果てまで行っているのにもかかわらず。
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