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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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人生は無駄多きゆえ、後悔つきぬ。


人生には、何と無駄の多いことだろう。
一人一人がそれぞれに無から始めて、際限のない欲望に支配されながら生きていく。動物や昆虫と比べると、効率が悪く愚かしいことではないか。

いくら可能性が無限だと言っても、それぞれの人間を見ると、互いに似たり寄ったり。なるほど中には、他より優れているものもいるかもしれない。
しかし、優れたと言っても他の人間と比べてのこと。

とどのつまり、最終的には自分自身の問題となる。そして、あまり意味のないことをしていることに気づき、愕然としてしまう。そして、「学問も技術もやめちゃえ」と天台摩訶止觀で言っていると『徒然草』に書いてあったり、蘇軾(そしょく)の「字を識(し)るは、憂患の始め」などという言葉を思い出すと、何となくがっくりしてしまう。

学問をして文字を知ると、いろいろな情報が自分自身に入って、それから悩みが生じる。さらに、パソコンなどを利用すると、ついには情報過多になって疲れてしまう。

むしろ、何も知らないほうが気楽でよいのかもしれない。
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裏の裏、奥の奥まで理解できない。


いくら調べても、人知では計り知れないことがあるようだ。
裏の裏や、奥の奥を知ろうとするのは、空しいことであろう。

例えば、養鶏場のニワトリを考えてみるとわかる。
自分たちがニワトリであることは、わかっているだろう。また、何となく自分たちがフライドチキンにされちゃうんじゃないかというような一抹の不安が、彼らの脳裏をよぎるかもしれない。それは、動物のもっている本能であろう。とさつ場に引かれる牛が、しりごみをするという。

学問が進んでも、わからないことがあるにちがいない。ある天文学者は、宇宙の秘密はまだ5パーセントくらいしか解決していないと言う。しかし、私は99.999パーセントが未解決と思う。

それよりも、身近な疑問がある。それは、なぜ自分が人間であるかということ。また、なぜニワトリや牛が、ニワトリや牛に生まれたかということ。
そんなことを考えると、理解できないことが多すぎる。そして、それらの理由はわかる必要がないのかもしれない。
おっかないテロ感染に注意をしよう!


ここのところ、どうも体調がよくない。
すでに一年以上も通院をしているのだが、さっぱり治らない。

先生も不思議がって、気のせいではないかと疑い始める始末。
私の質問に答えられないので、とうとう心療内科のほうへ行けと言い出した。
つまり、気分によって状態が悪化しているのではないかと考えたようだ。

しかし、そうではない。
私は、しっかりとした原因を知っているのだ。残念ながらその証拠はないが、何が原因なのかはわかるし、なぜ治らないのかもうすうす理解ができる。
なぜならば、新種のパラサイトやコメンサルが体内に侵入したからである。

それは炭疽菌や肝炎菌などよりも治りにくいのであるが、細かいことをここに書くわけにはいかない。また、被害妄想などとも言われたくもない。
先の戦争のときに、すでに歌舞などは禁止されていたが、最後まで蔡勤舞台などもあって、うろ覚えであるが西向く士の最初のような饑餓した。
元来、侵略とはそんなもんだろう。

ここのところ、私は腹が減った気がしてしかたがない。
もしかしたら、徐々にカルシウムの代謝が悪くなって、身体の活発さや持久力を失いつつ、食料だけを消費させるという戦略があるのかも知れない。古典である「六稲三略」や「クラウゼビッツ」なども、改めて勉強してみるか。

プリンタもスキャナもやめた、壊れたままに。


プリンタが壊れたので、井の頭線の高井戸にあるhpに行ってみた。
すると、そこでは答えていないという。にべもなく、きりはなこくった感じ。

実際には、いろいろと知りたいことがあったので、担当者から意見が聞きたかったんだ。でも、無駄足になったので浜田山の珈琲苑で、先輩の三木さんとダベって帰った。

結論として、今後はプリンタもスキャナも使わないことにした。
そして、市の不燃物回収のときに200円のワッペンを貼って故障品を出す。修理は、手続きが面倒だからしない。
おそらく、プリンタやスキャナとには、個人的な意地もあって永久のお別れになるであろう。とくに、hpの製品とは。

DELLのプリンタなどは、優れものが5000円前後で買える。
しかし、メカ音痴な私には、慣れるまでに相当の期間が必要になるだろう。そんなわけで、買うのを躊躇してしまう。決して、5000円という金額の問題ではない。ここのところ、時間が惜しいのである。

今後は、手持ちの品物を工夫をすることによって、何とかしようと思う。
スキャナは、デジカメ写真で代用する。そして、印刷は一切せずにパソコンの画面で見ればよいのである。いっそ、PDFにしたらよいかもしれない。



屁理屈か? 高守さんの「やめちゃえ!」の説。


先日、吉祥寺のルノアールで高守さんたちと話をしていたら、「何事もやめちゃえ」というような意味の意見を聞いた。しかし、私は「天台摩訶止觀」のことを考えながらも、そのときは別の人がいたので黙っていた。

それは、『徒然草』第七十五段後半にも引用されている、

<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>

のことである。
愚かな人間は、脳にあやつられて四苦八苦する。その結果、自分で自分を苦しめたり、隘路に追い込んでしまうサディズムになる。騎手が馬に乗って、疾走をするのよりもひどい。

馬が、つぶれてしまうまで走るのである。多額の賞金のためか。世間の名誉のためか。愚かなことである。私はなぜか、ふとそのときに「かえるの腹自慢」という話や、宮沢賢治の「どんぐりと山猫」、さらには兪曲園の「顔面問答」などを思い出したのである。
裏の裏まで考える、アマ・プロ将棋。


先日(2007年10月13日、土曜日午前中、270チャンネル)、「囲碁・将棋チャンネル」で「アマ・プロの将棋対戦」を見た。
アマ側は、荒木長一氏(書店店主)で下手(先手)、アマ四段であられる。
いっぽう、プロは前田祐司八段。飛車・角の二枚落ちで対戦された。

結局は、荒木氏が前田プロに勝ったのであるが、非常に印象に残った将棋であったので、ここにメモっておこう。

最後は、画面上右端から歩4枚を後方に残して、前に出た後手の王が行き場を失って、前田プロが投了、つまり負けを宣言した。
しかし、私には終盤になって「桂馬による角・銀取り」になったときに、角を逃がさなかったことや、そもそも歩を4枚も後に残して王がどんどん上がってくることも、プロにはちょっと考えられないことであると、素人ながら考えた。

前田プロのお人柄を考えると、この勝負は始めから「相手に花を持たせる」気持があったのではないかとも思う。あるいは、荒木氏の実力やその人間性はプロから見ても、相当なものかもしれない。
しかし、素直に見た場合、素晴らしい名勝負であったと思う。

うとましき人間関係、空しくもあり。


『徒然草』ではないが、人と人との関係には空しいものがあるようだ。
「一人がよい」という理論などは、それが可能であればよいと私も思う。

人間関係には、感情的な下らないことが多すぎるのである。
政治や宗教、そしてスポーツの社会や相撲部屋の内部などでも、何をしているのかわからない。

おそらく、人間社会のもたらす醜い感情の発露の場所となるのであろう。
ナポレオンや西郷隆盛の最期の孤独などを考えると、初めから何もしなかったほうがよかったと感じるのは何故だろうか。

私が二十歳代のときのオリンピックで優勝した外国の選手に、報道記者が「孤独を感じませんでしたか?」と聞いたら、その選手は「こんなに大観衆がいるのに、何で孤独なのですか?」と聞き返していた。

魚や昆虫の群れなどは、それ自体が相互関係で、個々の思惑などはないのではないか。

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