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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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水を飲む方法もあり、脳梗塞に。


ここのところ脳梗塞で倒れたり、亡くなっている人が多い。残念なのは一回倒れて、そのリハビリ中に死んでしまうことである。しかし、本当はそうならない秘訣がある。

私たちは、空気や水や食べ物が生きていく上に必要なことを知っている。空気は、数分間でも止(と)めるわけにはいかない。三分ほど空気を吸わなければ、窒息をしてしまうからである。呼吸ができなければ、死んでしまうから、喉に穴を空けて応急的に対処することがある。

食べ物は断食を含めて、かなりの時間が食べずにいられる。個人差があるが、腹が減るまで我慢をすればよい。水も飲まないで、我慢ができる。しかし、それは危険である。空気ほどではないが、補給をしばしばしないといけない。なぜならば、喉が渇いたときにはすでに危険が迫っているからである。ヒトの身体が半分以上は水であるのに、水の補給について日々おろそかにしていることが不思議である。清冽な水を少しずつでよいから、しばしば補給をする習慣をつけていれば、脳梗塞にはなりにくいと思う。
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新しい発見もあり、年老いてから。


人生も終盤になってから、いろいろと新しい発見をする。今までは、すべて科学的に考えたり、学問的に納得をできないことは信じなかった.。しかし、最近になって直感的に物事を判断をするようになった。その結果、世の中の常識などとは、大きく異なってくることがある。

それを証明できなくともよい。自分自身が、そう思えばよいのである。その大きなテーマの一つが、脳。脳がすべてを考えると考えること自体が、一つの幻想だと思うのである。確かに脳は、身体のすべての部分と連絡をしている。それは、事実である。白血球やミトコンドリアなどと比べると、非常に複雑な構造をしている。

それでも、「何のために生きているのか?」とか、「自分は死んだら、どうなるのか?」などと、脳自体は考えていないらしい。もしも、考えていれば世の中に巨万(ごまん)とあるような愚かしいことは、なくなるはずであるから、……。つまり、「思いもよらなかったこと」など、なくなってしまうのではないか。

いろいろな試みは、ただ空しくもあり。


いろいろなことをやってみたいと思うのであるが、どうも気力がない。そこで、考えるだけで終わってしまう。何となく、ただ生きているだけと言った感じでもある。

生きているだけでも、健康であれば幸福かも知れない。日々生きる最低のことをしていれば、そのうちに何とかなるだろう。

しかし考えてみると、生きているというよりは、生かされている感じが強い。飼われている動物、例えば篭の中に入れられた小鳥や、金魚鉢に入った小魚のようでもある。なぜかというと、誰かに見られている感じがするからである。そんなことが、互いにないだろうか? ……
何となく、何をするのも億劫であり。


体調が衰えたために、やる気が出ないのかもしれない。とにかく、何をするのも億劫(おっくう)なのである。怠け者になってしまった感じである。

それでも、腹が空く。しかたがないので、あるもので食事をすます。何もないときは、酒を飲んで食事の代わりにする。横山大観のようになってしまえばよいのだが、ビールだけでは腹がふくらまない。そこで、玄米の飯を炊く。

おかずなどを作るのも面倒であるから、その炊きあがった飯にゴマや小女子(こうなご)をかけて食べる。つまり、ビール大瓶一本と玄米で一食をすましてしまう。今後とも、大丈夫だろうか?

どうしても不足しがちな栄養補給。


現代生活において、どうしても不足をしてしまう栄養分がある。現実には微少栄養素などが、食べ物から補給できない。そこで、サプリメントなどから摂取することになる。仕方のないことであろう。

スーパーで売っている野菜なども最近になって、かなり栄養配分が異なってきているらしい。

例えばトマト。かつて一つ食べればよかったものが、三つくらいを食べないとダメらしい。栄養価が、ずいぶんと下がってしまったからである。その製法が異なってしまったために、まったく含まれなくなってしまった栄養素もあるらしい。困ったことである。

面倒や億劫が増え、生活鈍る。


最近になって身体が衰えたためであろうか、何かをするときに面倒や億劫(おっくう)を感じるようになった。その結果、何となく生活がだらしなくなってしまった。

身体の衰えばかりではなく、義姉の死などによって大いに人生観が変わってしまったためかもしれない。人は何のために生きていて、そして死んだらどうなるんだろうなどと、真剣に考えるようになったからである。それほど義姉の死は、私にとって大きなショックであった。

とどのつまり、義姉自体も何一つわからないままに死んだのであろう。三つも洗礼名をもっていた義姉ではあるが、いわゆるクリスチャンとしての自覚はなかったみたいで、その死にざまも見事ではなかった。ゴミ屋敷に閉ざされて、死んだからである。
喉ごしに飲む水の味、ビールに勝る?


ビール好きの私であるが、最近になって感じることがる。それは、水のほうがビールよりも美味(うま)いのではないかと言うこと。やはり水でない清涼飲料水には糖分が含まれていたり、ビールにはアルコールが入っている。それらは、糖尿病や内臓にとって好ましくないであろう。

若い時代に酒の大吞(おおのみ)をした翌日、冷たい水がおいしかったことを覚えている。そのときは、もう酒などはこりごりで、飲みたくないと思ったからである。

しかし、そのような反省があっても、数日後には酒を飲むのである。そして、やがて同じことの繰り返し。思うに人体は、清冽な水に対して美味(うま)いと感じる本能をもっているのではないか。酒や清涼飲料水や甘味のない時代から、……。
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