rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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混沌とした思い出が、脳裏をよぎる。
それは、いったいどういうことなのだろうか? 楽しい思い出とか、反対に不愉快な思い出などが、ふと突然に出てくる。とくに、そのときの感情には関係がないようだ。
脳は起こったことの一連の記憶場所らしい。そして、その記憶は後で何かの拍子に再生されるのではないか。つまり、経験を思い出すことである。
整理ができていない状態で、混沌としたままの形で出てくるのは、困ってしまう。いったい、それにどういう意味があるのだろうか、自分自身でもまったくわからないからである。
それは、いったいどういうことなのだろうか? 楽しい思い出とか、反対に不愉快な思い出などが、ふと突然に出てくる。とくに、そのときの感情には関係がないようだ。
脳は起こったことの一連の記憶場所らしい。そして、その記憶は後で何かの拍子に再生されるのではないか。つまり、経験を思い出すことである。
整理ができていない状態で、混沌としたままの形で出てくるのは、困ってしまう。いったい、それにどういう意味があるのだろうか、自分自身でもまったくわからないからである。
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老いたらば、転ばぬように万全の注意!
若いころは問題でないことが、老いてくると違ってくる。足がからんで転んだだけでも、打ち傷をしてしまう。もしも、後ろ向きに転ぶと脳を打って、脳震盪になる危険性が大きい。
したがって、平素から万全の注意が必要である。靴も滑りにくいものを履いて、歩幅も小さくする。歩幅を小さくするのは、躓(つまず)かないためと、軽く躓いても転ばないようにするためである。
また、階段なども身体のバランスを崩したときに、手摺りにすぐに捕まれるような体制にしておく。階段やエスカレータの手摺りをべたっと握ってしまってもよいが、そうすると衛生面の問題が生じる。
若いころは問題でないことが、老いてくると違ってくる。足がからんで転んだだけでも、打ち傷をしてしまう。もしも、後ろ向きに転ぶと脳を打って、脳震盪になる危険性が大きい。
したがって、平素から万全の注意が必要である。靴も滑りにくいものを履いて、歩幅も小さくする。歩幅を小さくするのは、躓(つまず)かないためと、軽く躓いても転ばないようにするためである。
また、階段なども身体のバランスを崩したときに、手摺りにすぐに捕まれるような体制にしておく。階段やエスカレータの手摺りをべたっと握ってしまってもよいが、そうすると衛生面の問題が生じる。
「疲れた」と言うと、ますます疲れてしまう。
よく、「疲れた」「疲れた」という人がいる。しかし、そのような人は自己暗示にかかってしまい、ますます疲れてしまうようだ。
むしろ、疲れなどを忘れている状態が好ましい。しかし、そんなことを言っても、古稀を過ぎると、身体が衰えるのでなかなか難しい。
仕方がないので、自分で自分自身を騙すようなことを考える。つまり、疲れてはいるが「まだまだ大丈夫!」と思うのである。そして、しばらく横になって休息をする。そのときに、頭を水枕やアイスノンで冷やすと、私の場合は効果的である。
よく、「疲れた」「疲れた」という人がいる。しかし、そのような人は自己暗示にかかってしまい、ますます疲れてしまうようだ。
むしろ、疲れなどを忘れている状態が好ましい。しかし、そんなことを言っても、古稀を過ぎると、身体が衰えるのでなかなか難しい。
仕方がないので、自分で自分自身を騙すようなことを考える。つまり、疲れてはいるが「まだまだ大丈夫!」と思うのである。そして、しばらく横になって休息をする。そのときに、頭を水枕やアイスノンで冷やすと、私の場合は効果的である。
ゆらゆらと水母(くらげ)漂う心地は何故(なぜ)か?
最近になって、身体全体がゆらゆらとすることがある。もしかしたら、病気なのかもしれない。脳の感覚が、そう感じるのであって、脳震盪にも似ている。しかし、しばらくすると治ってしまう。
おそらく、三半規管の故障だろう。三半規管は、内耳にある三つの半環状の管である。それらは、互いに直角に組み合わされており、その中にはリンパ液が満たされている。そして、その動きによって回転方向を立体的に知る。つまり、平衡感覚を司っている。
とにかく、短時間でも平衡感覚を失うのは困ったことである。やはり、加齢によって身体に不都合が生じるのであろう。すでに古稀(七十歳)を過ぎたのであるから、横井也有が『歎老辭』に言うように、仕方のないことかもしれない。
最近になって、身体全体がゆらゆらとすることがある。もしかしたら、病気なのかもしれない。脳の感覚が、そう感じるのであって、脳震盪にも似ている。しかし、しばらくすると治ってしまう。
おそらく、三半規管の故障だろう。三半規管は、内耳にある三つの半環状の管である。それらは、互いに直角に組み合わされており、その中にはリンパ液が満たされている。そして、その動きによって回転方向を立体的に知る。つまり、平衡感覚を司っている。
とにかく、短時間でも平衡感覚を失うのは困ったことである。やはり、加齢によって身体に不都合が生じるのであろう。すでに古稀(七十歳)を過ぎたのであるから、横井也有が『歎老辭』に言うように、仕方のないことかもしれない。
夢さめて、瞬間どこにいるかを迷う。
うたた寝をしていて、目が覚めると、ふとどこに自分が居るのかを迷うときがある。私は、温泉の寝風呂でうたうたとしたときなど、目が覚めると家の蒲団ではないので、瞬間ではあるが、びっくりしてしまう。
夢自体が連続性のないものであるから、他愛のないことを考えていたのであろう。どこで夢が覚めても、身の危険もないような内容である。
それでも、論理の脈絡が途切れると言うことは、考えてみればなかなか恐ろしいことでもある。生死についても、そんなことが大きな問題になることがあるかもしれない。
うたた寝をしていて、目が覚めると、ふとどこに自分が居るのかを迷うときがある。私は、温泉の寝風呂でうたうたとしたときなど、目が覚めると家の蒲団ではないので、瞬間ではあるが、びっくりしてしまう。
夢自体が連続性のないものであるから、他愛のないことを考えていたのであろう。どこで夢が覚めても、身の危険もないような内容である。
それでも、論理の脈絡が途切れると言うことは、考えてみればなかなか恐ろしいことでもある。生死についても、そんなことが大きな問題になることがあるかもしれない。
食事することの自体が、労働である。
「腹が減ったら、飯を食えばよい」などと、単純に言う。しかし、飯を食うこと自体が、かなりの重労働である。その証拠に、かなり疲れたときには、飯を食う気力までなくなってしまう。
そんなときに、何かを食べると、かなり疲れる。そして、消化できなくて、戻したり噎(む)せ込んだりしてしまう。
したがって、ある程度空腹になったら、何かを食べなければならない。とくに高齢者になったら、注意をする必要がある。生理的に、内臓が弱くなっていることもあるからである。
「腹が減ったら、飯を食えばよい」などと、単純に言う。しかし、飯を食うこと自体が、かなりの重労働である。その証拠に、かなり疲れたときには、飯を食う気力までなくなってしまう。
そんなときに、何かを食べると、かなり疲れる。そして、消化できなくて、戻したり噎(む)せ込んだりしてしまう。
したがって、ある程度空腹になったら、何かを食べなければならない。とくに高齢者になったら、注意をする必要がある。生理的に、内臓が弱くなっていることもあるからである。
言い分は、それぞれにあり、当時の価値観。
石川五右衛門やヒットラーにも、それぞれの言い分があったと思う。しかし、私はその内容を知らない。また、ムッソリーニに関してカトリック教会が、いったいどのような価値観をもっているかも知らない。
世の中には、二重人格というのがあるそうだ。そして見方によっは、いずれの側にも考えられる。私は中学生の頃から、東条英機という人は、真面目で偉大な人だったと思っている。
かつて、イザヤ=ベンダソンという奇怪なペンネームで『ユダヤ人と日本人』という本があった。その頃から、私は義姉がユダヤ人(またはユダヤ系の人)でないかと考えた。なぜならば、人格が二重に見えたからである。
石川五右衛門やヒットラーにも、それぞれの言い分があったと思う。しかし、私はその内容を知らない。また、ムッソリーニに関してカトリック教会が、いったいどのような価値観をもっているかも知らない。
世の中には、二重人格というのがあるそうだ。そして見方によっは、いずれの側にも考えられる。私は中学生の頃から、東条英機という人は、真面目で偉大な人だったと思っている。
かつて、イザヤ=ベンダソンという奇怪なペンネームで『ユダヤ人と日本人』という本があった。その頃から、私は義姉がユダヤ人(またはユダヤ系の人)でないかと考えた。なぜならば、人格が二重に見えたからである。