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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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時間とは、いったい何であるのだろうか?

なぜ時間があるのだろうか? 一生とは、何であろうか? そもそも時間とは、いったい何であろうか?

私は、時間とは概念に過ぎないのではないかと思う。つまり、運動があるから時間の概念ができるのである。そして、現代において運動のない社会などは、考えられないからである。

したがって、それは相対的なものであろう。仮に、99万円以上を持っている人を金持ちとする。すると、そうでない人は貧乏人になってしまう。つまり、価値観の問題で、基準をどこに置くかを決めるのである。するといったい、自分の一生とは何であろうか?
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ドン=キホーテの悲しみは、それなりにある。


ときどき「ドン=キホーテ」の映画を見る。歌劇になっているものもあり、「ラ・マンチャの男」の場合もある。私は、主人公が笑いものになっているのに、人間性の悲しみを感じる。つまり、キホーテとパンサの人間性に対して、自分の中にある感情が働いてしまうらしい。

おかしみでも、「ミスタービーン」のような「単純で軽い」(と思わせるように作ってある)愚かさに対する感情とはずいぶん異なる。

人間の本質に関する滑稽さは、何ともしがたい。最後に本を焼いて、キリスト教徒として死ぬくだりでは悲しみがこみ上げる。ラ・マンチャでは、キホーテとパンサが宗教裁判を受けるために、階段を上がっていくところなどは、何ともやりきれない気持ちがする。
勝五郎、それなりに知る、死後の空間。


丹波哲郎や宜保愛子のYouTube動画を見ることもある。最近は、「大霊界3」というのを見た。小泉八雲の記述をもとにして、勝五郎のテーマを丹波流に解釈したものである。

私は、死んで生まれ変わるとは思わない。そもそも死なないのである。重力の作用がいわゆる生前と異なるので、天井から自分自身の死体を見ているというのは、もっともなことであろう。

映画になった程久保にある勝五郎の前世の家なども、何回も前をとおったことがある。昔の農家なので、どれも似たような感じである。また、映画の中では姉弟の年齢が離れていたが、もっと近かったのではないか。
自己用に、『Qの福音書』と『ジューダスの福音書』。


市販されている聖書にある福音書は、あまり参考にならないと思う。そこで、自己用に『Q(クー)の福音書』と『ジューダス(ユダ)の福音書』を作った。その後、何回か読み直している。

ナショナルジオグラフィックの「失われた福音書」には、「ユダの福音書」のことが述べられていた。内容について、私は「さもありなん」と思った。

また、「Jesus_Christ_Superstar_1973」という映画はイエスではなく、むしろユダが主役のようである。そして、何となくユダの立場を弁護しているように思われた。その結果、『ジューダスの福音書』と同じ立場を取っているので、私はうれしく思った。

ガンになる理由は、日々の生活にある。


最近は、ガンになる人が多い。そして、治らずに悪化して、死んでしまう。恐ろしい話である。親しかった人も、ずいぶんアウトになった。

おそらく、食べ物や生活習慣に問題があるのではないだろうか。食べ物の中に入っている化学薬品などは、ガンの原因になるものが多い。また、水もペットボトルの場合は、生水でないので注意が必要。

生活習慣として、運動不足があげられる。なるべく歩くようにして、身体を鍛える必要もあるようだ。
考えてみれば危ない場所に日々いる。


私たちは、何とも不安定で危険な場所に置かれている。いつ大地震があるかもしれない火山列島の上、また気候的にも不安定な地球上の位置、すなわちいつどうなるかもわからない土地の上にいることに気付く。

また、自分自身の身体を考えてみても不安定。それは、明日にもガンになるかわからないし、循環器系の病気で死んでしまうかもわからない。医療行政の中にいると言っても、何となく安心できない。

さらに考えてみれば、偽りの世の中にいて、人生の持ち時間をすり減らして行くような感じである。なぜそんなことを考えるかというと、自分なりに理由がある。つまり、考えるのでなく、本能的にひしひしと感じるのである。だいぶ前からのことであったが、それが次第に強くなってきた。
増えすぎたような感じの人類、いかに?


地球上の総人口は、2011年10月31日に70億人に到達したと推計される。しかし、アメリカ国勢調査局の推計では、その70億人の到達は2012年3月12日としている。いずれにしても、いま70億人を超えたことは事実であろう。

この70億人をどう考えるのか? 増えすぎたと考える人も、かなりいるはずである。もしも、人類が何者かに飼育されているとすると、増えすぎて全体的な資質が低下したので、間引きをしなければならないと考えるのではないか。

あたかも、狭いところに多くの家畜がひしめき合って飼われていたら、品質が下がってしまうので、飼育者は全体を減らすことを考えるだろう。また、場所によって人口密度が均一でないと、飼料の配分なども大変である。
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