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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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症状に、痛み・痒みがないのは初期か?


腹がチクチクするとか、全身が痒(かゆ)いなどという症状はない。しかし、それなりに内臓が冒されていることがあるらしい。ガンの場合は、初期の段階では痛みがないらしい。

私は、痛みや痒みがないときは、初期状態だと思って我慢をしてしまう。そして、病院にも行かないし、薬も飲まない。

しかし、高齢になると、症状が出たときには、すでに手遅れということもあるらしい。そこで、市から案内の来た「平成24年度 特定健康診査・後期高齢者健康診査」を受けてみようと思う。わざわざ「後期高齢者」と書いてあるので、かなりの覚悟をしておく必要がありそうだが、……。
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何もかも中途半端で、恥ずかしくなる。


今までにしたことは、ほとんどのことが中途半端。いわゆる完成の域には、何もかも達していない。努力が足りなかったのか、それとも力不足だったのか。

いずれにしても、自分自身で満足ができないのであるから、恥ずかしいかぎり。そんなことを続けているうちに、歳をとってしまった。

つまり、何のために何をしてきたかを考えると、恥ずかしくなるのである。そして、さらに人生は何かなどと、思いを巡らす。イソップのサワー・グレープスのような論理をもってきて、自分自身をなぐさめることもしばしば。
すぐ疲れちゃうのは、何か病気であるか?


ここのところ体調が何となく優れず、何かをすると、すぐに疲れてしまう。朝起きて、何もしなくても、疲れていることがある。

もしかしたら、何か重篤な病気なのかもしれない。単にイルヘルスという状態では、考えられない身体(からだ)だからだ。疲憊(ひばい=疲労困憊)といったような感じである。

考えられる原因としては、糖尿病の結果かも知れない。尿の中の糖が、平常でも大きな値になってしまって、それが戻らず何となく心配である。まだ、目は何ともないが、そのうちに失明するかもしれない。今年は市から来た「平成24年度 特定健康診査・後期高齢者健康検査」に行ってみようと思う。
思いつき次々アップ、理工フォーラム。


思い付いたことを理工式健康法フォーラムに次々とアップしていく。思い付いたことだから、あまり系統だってはいない。それでも、いいのである。

もともとフォーラムであるから、意見の異なる人がいるであろう。また、同一人物でも時間が過ぎれば、考えが異なってくる場合もある。

この理工式健康法フォーラムは、学術的に整理をされた著作物ではない。医学事典や医学ハンドブックでもない。したがって、前後に記述の矛盾があってもかまわない。むろん、個人差などもあろう。それぞれの人が、その場合に体験をしたようなことがらを記述しておけば、後で多くの人の参考になる場合があるのではないかと思う。
どちらかと言うと、独りが気楽でもあり。


結婚をするよりも、独身のままでいたほうが気楽かもしれない。人間関係は、ともすると煩わしいことが多いからである。

西行や鴨長明のことを考えると、そのような生き方は、昔からあったようだ。しかし、そうはしたくても、病気になったり倒れたときのことを考えると、心配である。

現代では独り暮らしをしていても、問題はないだろう。昔のように「村八分」のルールさえもなくなってしまったようだ。したがって、必要でない社会には参加しないほうがよいのかもしれない。しかし、老いてくると心配でもある。

外食の悪い癖、つい飲んだらはしご。


ふつう、朝飯は吉野家ですることが多い。たいがいライスカレーか牛丼、朝の定食のこともある。その他にビールとキムチ。とても、おいしい。

その後である。大食いの私は、ちょっと食べたりない。と、言うか飲み足りないのである。そんなわけで、ビールが飲める店に行くことが多い。

困ったことだと思うのであるが、いったん店を出てから、別の店へ入る。つまり、はしごをするわけである。なるべく外食をやめて、家で食事をする方式に変えればよいのであるが、支度や後の皿洗いなどが面倒なので、そうもいかない。何とかしなければならない。
丹念に読めば読むほど、わからなくなる。


例えば、新約聖書の福音書などがそうである。素晴らしい書物ではあるが、何とも理解しがたい部分が残っている。

そもそも、何で福音書などというタイトルになっているのだろうか。福音とは、幸福の音信(いんしん)であるという。音信の文章と言えば、パウロの書簡のような感じを受ける。おそらく最初のころは、そのような記述であったのかもしれない。それが、後で追加をするたびに大きくなって、現在のストーリ形式に変わってきたのでしょう。

そしてタイトルだけが、そのまま残ったのかもしれない。そんな次第で、物語としては素晴らしいが、私には意味がわからない部分がまだ多く残されている。むしろ、『Qの福音書』などのほうが、わかりやすい。
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