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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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振舞いをこれ見よがしにするは愚かか?


何でも人目につこうと、振舞いをこれ見よがしにする人がいる。金持ちの風をよそおって、大盤振る舞いをする。学者や知識人を真似て、インテリジェンス風の発言をする。

そんな世の中のようである。そして、世間の人は、そんな人に追随していく。いわゆる付和雷同のやからが、多い世の中の様相を呈する。

しかし、私はいつも「目立たないほうがよいのではないか」と思っている。人は他人から注目されると、絶えずそのことを意識していなければならなくなる。そして、自分自身を自由に振舞えなくなってしまう。そんな意味で、「振舞いをこれ見よがしにする」ことは、愚かであるばかりでなく、それ以前にも滑稽で、哀れであるような気がする。いかがであろうか。
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ゆるぎなき確信も、また崩れてゆきぬ。


最近になって、かつて学んだ基本的なことに、疑問をもつようになった。科学で証明されたことなどが、ゆるぎない確信であったのだが、何となくそれらも怪しげであることに気付き始めた。もっとも、その科学を科学的証明によって反駁をしたわけではない。

理性というか、本能というか、直感で疑い始めたのである。そもそも、人間の判断などというもの自体が、仮のものでしたないとわかった次第。いろいろなことを知ると、今までの知識が相互間で矛盾をしてくることに気付く。

自分自身が非常に小さい場所に置かれているにすぎないというようなことを知ると、今までのゆるぎなかった確信も、すっかり崩れてしまった。すなわち、何もわかっていないということがわかった次第である。
世の中は儲かる人と、その他大勢。


世の中には、金儲けのうまい人がいる。そんな人は、いつでも儲かるようだ。しかし、その他大勢は金儲けが下手。だから、いつも損をする。驚くことは、金儲けが下手なのに「自分は金儲けがうまい」と思っていることだ。

そんなわけで、大金が懐に入る少数の人々がいて、かなりの額の金を失ってしまう大勢がいるのである。競馬などの構図を考えていただきたい。社会の貧しい人たちから、少しずつ金を集めて、比較的豊かな人に大金を配当することが多い。

私は、そのような構造の楽しみをしないことにしている。だから競馬も競輪もしたことがない。宝くじも、むろんのことである。しかし、神社や仏閣に行って、お賽銭を入れる。その仕組みや構図は何となく似ていて、後ろめたい気がするのだが、……
次々と思いつきたり、必要なこと。


最近になって、次々と思いつくことがある。残り少なくなってしまった人生の日々に、いったい何が必要であるか? それは私にとって、おそらく安心立命だろう。もはや物質や金を求めても、満足できないことを感じる。なぜならば、体力や精神力が衰えてしまったからだ。

そこで、必要なことは心の平安である。そして、それが単なる充足ではないことに気付く。つまり、安心立命。

安心立命とは、「あんじんりゅうみょう」「あんしんりつめい」などと読み、どんなことにも動じない境地になること。もともと仏教の言葉だったらしい。安心は、安らぎを得て穏やかな境地に達する涅槃(ねはん)を言ったようだ。そして、立命は天命によって与えられた人生をまっとうすること。
人生は、ほどほどにすることが肝要。


何事も、徹底的にするのはいけないようだ。完ぺき主義などもダメ。むしろ、ちゃらんぽらんのほうが好ましい。そんなことが最近になって、私にも何となくわかってきた。

なぜかというと、そもそもそんなやりかたでは、すぐ疲れてしまうからである。そして、疲れはやがて失敗を招く。その失敗が、取り返しがつかない場合も多い。

また、相手がある場合には、あまりやり過ぎると辟易されてしまう。相手から見ると、やり過ぎは偏執症に見えるのかもしれない。ある程度の緊張は必要であろうが、そうかと言って絶えず気を張っているのも、大いに考えもののようである。
何となく支配をされている気配あり。


最近になって、身にひしひしと感じることがある。それは、すでにFMによって支配をされているということだ。そして私ばかりではなく、ほとんどの人が同じ状態に置かれているのではないだろうか。

あたかも、広い牧場で牛が放牧されているのと同じである。すでに、いつ屠殺場(とさつば)に送られて、食肉にされてしまうか決まっているのに、自分ではわからないような状態である。

近代社会の現状を考えると、そうあって当然だろう。多くの人間を繁殖させたFMは、その結果に満足しなかっただろう。そこで、次にできそこなった個体を排除するのではないか。蠱毒(こどく)のような試練はパスしたものの、すでに現代人は彼らの期待に副(そ)えなくなっているのである。
似たような作品、多く過去に作りぬ。


このプログの過去に作った文を見ると、似たようなものが多くて恥ずかしい。思いついた都度、記事にしているので同じようなテーマやパターンがしばしば反復するのであろう。

例えば、文の意味として
「人生は、ムダと無意味があまりに多し。」
「キリがないことを続けて、今日に至れる。」
「恥ずかしい思い出ばかり、蘇(よみが)えり来る。」
など。まったく、いやになってしまう。

全文が同じであるかどうかは、検索で調べればわかる。しかし、細かい部分が違うとわからない。それでも、『伝道の書』や『百万陀羅』のことを考えると、何回同じことが繰り返されてもよいのではないか。また、朝飯を食って、昼飯を食い、そして夜飯を食うように……。

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