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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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隠遁の身の寂しさも、楽しからずや。


「寂しさ」が「楽しい」とは、いったいどういうことであろうか。私は、西行のことを思い出す。『新古今和歌集』巻六冬歌にある
<さびしさに たへたる人の またもあれな 庵(いおり)並べむ冬の山里>
である。

その意味は、「私(西行)と同様に、このような寂しさに耐えて暮らしている人がいればいいんだが。そうしたら、この山里に庵(いおり)を並べて住めるんだがなぁ。」

すべてを捨てて出家をしたわけであるが、自然の寂しさの中にあって、ふと人が恋しくなった西行の心の奥底が何となく感じられる。しかし私は、逆に開き直って、そのような状態が楽しいのではないかと思うのである。
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出家して逐電するも、生き方であり。


私は小心だから、出家したこともないし、逐電したこともない。しかし、鴨長明『発心集』を読むと、心が洗われる。なぜだろうか。また、『徒然草』第十二段「ひとりぼっち」についても何となくわかる。

以下は、『発心集』『徒然草』以外だ。人生には、やりきれない思いがあって、ある日おかしな衝動にかられ、奇妙な行動に出る。西行は、ある日突然縁側から娘を蹴落として、家を出て西へ向かったという。尾崎放哉も銀行支店長であったのに、突然に家出をして放浪の身になった。あるいは、芭蕉の心もそうだったのかもしれない。家族のことや、人間のデリケートな気持を詠んだ句が少ないように、私には思える。

『男たちの旅路』で、鶴田浩二が演じたガードマン。人生には、ある日突然に自分自身を失ってしまうほどの精神的ショックが来るのかもしれない。桃井かおりの若いころの姿が印象的であった。
いつ死んでもよいようにと、ぼつぼつ準備。


何となく、ここのところ健康に自信がなくなった。そこで、身の回りの整理などをしておくことに決めた。正直言うと、このような体験は二回目。前のときは、すべて整理をした時点で、治っていたのだ。

そのことは、「健康全般に関するQ&A(十問十答)」に書いてある。

ここでは、この新句(十九音)について、ちょっと蛇足をしておこう。
下の句「ぼつぼつ準備」は「じゅ」を一音と数えて、何とか七音。しかし、上の句「いつ死んでも」は一字余り。中の句「よいようにと、」は一字足らず。そこで、「上の句」と「中の句」をプラスマイナスしてOK。そんなふうに、新句(十九音)はフレキシブルなのである。
プチさんは、小さいながら探検である。


プチさん(プティ散策)は小さい散歩、そして私にとっては、それ自体は小さいながらも知的空間を広げるための一つの探検なのです。あまり遠い場所に行かないで、せいぜい半日でできる活動範囲ではあるが、それでもその中にいろいろと面白いことがある。

まったく知らなかった場所があり、今まで気がつかなかった建物などがある。寺院などは昔からあっただろうが、新たに建て直したり、まったくない場所に再建したところもあるようだ。

いずれにしても、過去には自分があまり知らないところに行くのであるから、新しい発見がある。それが大きくても、あるいは小さくてもよい。したがって、少なくとも今までの知的空間を広げてくれる探検とも言ってよいだろう。
マイ・スペースと言うか、おのれの知的空間。


物理的な大きさは、まったく必要としない。しかし、知的な満足が得られるだけの空間は必要である。そして、それを構築するために日々努力をする。

知的空間を作り始めてから久しい。しかし、それはなかなか完成しない。砂上の楼閣という言葉があるが、まったく覚束ないのである。なぜならば、基礎のないままに家屋を建て増ししていくようなものだから。

横に広げるのではなく、上に継ぎ足していく。いきおい、不安定になる。その結果、崩れ落ちてしまう。そして、また基礎から作り直す。そんな状態であるが、それでもマイ・スペースとして求め続ける。おのれの知的空間があると、それなりに何となく心が落ち着くからであろう。
考えることは、楽しい無限の世界。


知的空間などという。現実の世界では、いろいろな制約があって、思うようなことはできない。しかし、考えることには制約がない。あまり実行を伴わないからである。

そんなことで、あれこれと考える。『発心集』に「貧男差図ヲ好ム事」という件(くだり)がある。貧しい男が荒れ果てた寺で、広大な屋敷の設計図を書いている話。そんなことをしても、まったく現実性がないだろう。しかし、その男は一所懸命になっている。それが楽しい世界で、その中では可能性が無限に広がっているからだ。

したがって、そのような空想の世界であってもかまわない。そんなことは馬鹿げていると言われても、本人がよければそれでよろしい。回りの人に迷惑をかけない楽しい無限の世界は、それが夢幻であってもよいのではないか。
知的空間、構築をするときの楽しみ。


知的空間などと言っても、他愛(たわい)ない子供だましよのうなものかもしれない。それでも、よいのである。自分なりに、それが知的空間と思えばよい。

その知的空間を、何とか考えられる範囲で構築するのである。つまり、自分自身の置かれた場所を知って、それを取り囲む一つの宇宙観を作る。そんな空間が、それなりに知的空間なのである。

例えば、いま自分はどこにいるのか。そして、かろうじて生きているが、死んだらどうなるのか。そんなことを自分なりに、知っておく必要がある。例えば、自分の置かれた場所は、限りなく広い一つの面であって、実際には時間などない空間である。そして、死とは実際には面の裏に行くのではないだろうか。メビウスの帯のようになっていて、先端でねじれていて、自分自身が裏面に吸収されてしまう。そんなことが、何となくわかってきた。
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