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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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さて今日は、何をするかと迷うことあり。


年金生活者になって、サンデー毎日である。日々に必要な手続きや仕事は、ほとんどない。いきおい、自分の意思で一日を過ごせるのであるから、何ともありがたい話である。残されたわずかであろう人生を何としたらよいか、迷うことがしばしば。

体調が優れているとき、晴れて風も強くなく天気がよいとき、そんなときには外出をする。そうは言っても、とくに行かなければならないところがあるわけではない。そこで、あまり遠くない名所や神社仏閣などを回ってみる。日帰りで行けるところを原則として。

「そんなことをして何になるのか」という疑問が生じる。しかし、そんな単純な行動でも、その中に楽しみがあり、また運動不足も解消できる。そんな次第であるから、何をするか、どこへ行くかを迷うのである。
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人間の脳と身体(からだ)が有する不思議。


人間の脳と身体(からだ)とには、いろいろと不思議なことがある。結論から言うと、私にはよく理解できない。

「脳」は、脳幹と小脳と大脳との三要素から構成される。「脳幹」は、呼吸・睡眠・血液・体温など生きるために必要な基本機能を担っている。「小脳」は、運動や姿勢に関する指令を出し、そして「大脳」は考えたり、感情や思考、さらに言葉などを分担するという。

しかし、私は「自分の脳」で考えたつもりだが、何となく次のようなことを危惧する。つまり、もしかしたら「脳は遠い過去に、人間の身体に寄生した異質の生命体ではないか?」と直感的に考える。もっとも、脳で脳を考えるのであるから、支離滅裂の論理になっているかもしれないが、……
健康という概念は、個人差がある。


「健康」の定義は、ちょっとむずかしい。個人差が、大きいからである。WHO(世界保健機関)は、「健康とは、肉体的、精神的、そして社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病や虚弱さがないというだけではない。」というような定義をしている。

そもそも一人の人間を「肉体的」とか「精神的」とか「社会的」などという要素に、その状態を切り離して考えることができるのであろうか。何となくわかったような気がするものの、どうも私には納得ができない。

同じような状態であっても、自分自身を健康と考える人もいるし、すでに病気だと思う人もいる。つまり、健康という概念には、かなり個人差があって、一概には言えないのではないか。日々を楽しく暮らせれば、まずは健康と言ってもよいのではないだろうか。
いじらないことが安全、少々のこと。


いったい何のことかと思うでしょう。実際に、ここではパソコンの中のことだ。単体でなく、いわゆるインターネット接続しているので、うっかりすると問題を生じる。新しいツールをインストールしただけで、正常に動かなくなってしまうこともある。

ハードディスクの取扱いも、注意をしなければならない。例えば、CドライブとDドライブである。Cドライブが窮屈になったので、Dドライブ内の余った領域をCドライブに移そうとする。しかし、それが大問題になることが多い。それをするなら、いっそすべての領域をインストールしなおすほうが確実で早いかもしれない。

つまり、少々のことは我慢をして、そのままにしておいたほうが安全。簡単な理屈では考えられないようなことが、しばしば生じるからである。何となく人生の諸事情と似ている。
脳のNO、その存在を不思議に思う。


私は、かねがね脳の存在を不思議に思っている。しかし、それは脳が脳自身を考えるのであるから、あまり正しい意味がないのかもしれない。「脳」という字と「悩」つまり「悩み」という字の違いについても、何となくわかる気がする。

「人生を楽しみたいのう!」
「人間には、右脳と左脳があるっていう話だのう」
「脳のことについては、現在の医学でもわからないことがあるそうだのう」

何となく『千一夜物語』に出てくる「海坊主」のような存在でもある脳。私には不気味に思えてならない。何かをするときに、「脳がNO」という判断を即座に下せることについても、意味がよくわからない。もしかしたら、マクロファージやミトコンドリアなどよりも、もっと高度に発達した大型寄生体かもしれない。
オーパーツ、不思議と言うか、不可解である。


オーパーツは、私たちの常識では考えられない物品。誰が何のために作ったのか、またどのような技術で製作したかなどが不可解な品物である。近年になって、そんなものが続々と登場している。

もしかしたら、私たちの知らない次元があって、そのようなところで作られたものかもしれない。そのようなことを考えるか、あるいは贋作や何らかの陰謀説までを持ち出して何とか科学的に説明をするか、いずれにしても意見が食い違って互いに納得できない。

私は、もしかしたら人間の脳自体が根本的な間違いを犯しているのではないかと考えているので、不思議や不可解に関しては何となく納得ができるのである。そもそも脳が理解をするということが、どうも理解できないのである。
気力なく体力もなく、ただ生きるだけ。


何となく疲れてしまい、気力まで失ってしまうことがある。そんなときは、ただ生きているだけという感じがする。しかし、それはそれで人生にとって大切な時間なのかもしれない。緊張を続けていると、ストレスがたまるからである。

もともと、人生の意味とか生きる定義などは、存在をしないのかもしれない。「人生はあるからある」「生きているから生きる」というのが現実ではないか。人間の脳が進化をしたために、何事も論理付けをするようになった。そして、結論を求めようとする。

ないものでもあると考え、論理を展開するのが学問かもしれない。私たちは、空間と時間の四次元世界に生きていると考える。しかし、もっと多い多次元の宇宙にいて、ない時間を概念として考え、自分自身を含む宇宙を構築しているのかもしれない。そんなことを、ときどき本能的に考える瞬間に、気力も体力も失うみたい。
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