rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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衰えは、気持ち次第で減少できる。
いつまでも若くありたいと思う。しかし日に日に、衰えが進む。それは現実である。還暦を過ぎ、古希を迎えたころから、もうダメだなどと思う。
しかし、気持ち次第で衰えを遅く進ませることができるのではないかなどとも考える。むろん、衰えないなどということは不可能であろう。その進みを遅らせることは、工夫次第でかなり実現できるはずだ。
いつまでも青春であるためには、ウルマンの詩にあるように「年を重ねただけでは、人は老いない。人が老いるのは、理想を失うときだ。……60歳であろうと、はたまた16歳であろうと、心中に不思議なものに興味をもつ気持、子どものような未知への探求心、人生への興味と喜びがある。」と、私も思う。
いつまでも若くありたいと思う。しかし日に日に、衰えが進む。それは現実である。還暦を過ぎ、古希を迎えたころから、もうダメだなどと思う。
しかし、気持ち次第で衰えを遅く進ませることができるのではないかなどとも考える。むろん、衰えないなどということは不可能であろう。その進みを遅らせることは、工夫次第でかなり実現できるはずだ。
いつまでも青春であるためには、ウルマンの詩にあるように「年を重ねただけでは、人は老いない。人が老いるのは、理想を失うときだ。……60歳であろうと、はたまた16歳であろうと、心中に不思議なものに興味をもつ気持、子どものような未知への探求心、人生への興味と喜びがある。」と、私も思う。
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キリのないことを続ける性(さが)は愚かか?
キリのないことを次々する性格は愚かなことだろうか? 趣味や道楽の類いから、蒐集や研究用コレクションの場合のように本格的になると大変である。私は、『蛙の腹自慢』や『どんぐりと山猫』などを思い出す。
『徒然草』第七十五段に、「いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。」とある。
つまり、卜部兼好が天台摩訶止觀から学んだ心安らかに生きる方法である。『荘子』のように「有限の身であって、無限の対象を追うのは危ない」などとも考えたのであろうか。
キリのないことを次々する性格は愚かなことだろうか? 趣味や道楽の類いから、蒐集や研究用コレクションの場合のように本格的になると大変である。私は、『蛙の腹自慢』や『どんぐりと山猫』などを思い出す。
『徒然草』第七十五段に、「いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。」とある。
つまり、卜部兼好が天台摩訶止觀から学んだ心安らかに生きる方法である。『荘子』のように「有限の身であって、無限の対象を追うのは危ない」などとも考えたのであろうか。
何故に、アカデミズムは黙殺するか?
子どもの常識でもわかるようなことについて、なぜアカデミズムは黙っているのであろうか。また、本能や直感で知りえたり、考えたりしたことを認めないのはなぜだろうか。
科学技術が発達したからといって、すべてが解決できるわけではないことをわからないからではあるまい。やはり、現代社会の常識が偏っているとしかいえないような現象である。
かつては、神や仏を信じたという。現時点でも、神社仏閣がなぜ多くあるのであろうか。真剣に神や仏を信じた時代が、長かったからであろう。気がついていても言わないのは、気がつかないよりもまだ悪い。あたかも「裸の王様」の指摘をした子どものように、はっきりと真実が見られない時代が現代なのであろうか。
子どもの常識でもわかるようなことについて、なぜアカデミズムは黙っているのであろうか。また、本能や直感で知りえたり、考えたりしたことを認めないのはなぜだろうか。
科学技術が発達したからといって、すべてが解決できるわけではないことをわからないからではあるまい。やはり、現代社会の常識が偏っているとしかいえないような現象である。
かつては、神や仏を信じたという。現時点でも、神社仏閣がなぜ多くあるのであろうか。真剣に神や仏を信じた時代が、長かったからであろう。気がついていても言わないのは、気がつかないよりもまだ悪い。あたかも「裸の王様」の指摘をした子どものように、はっきりと真実が見られない時代が現代なのであろうか。
老人は、あつかましくて、モタモタしてる。
前に「老人は、あつかましくて、くさいからいや。」というのがあったが、今回はバスの中。満七十歳になると、シルバーパスが使える。最初にわずかな費用(千円のことが多い)を出すと、都内のバスや都営地下鉄に無料で乗れる。地下鉄のときは、パスを改札に通せるので問題がない。
しかし、バスは乗降のときに、パスを運転手に提示する必要がある。モタモタしているのは、そのときである。パスを出して、降りるまでに時間がかかる。最初から用意をしておけばよいのに、そのときに探したりする。
また、尊大な老人も多い。確かに社会人だったときは、それなりの仕事をしていたろう。しかし、シルバーパスを使ってバスを利用するときは、せめて他の乗客や運転手に迷惑をかけないようにしたいものである。私もシルバーパスなので、いつもそんなことを思う。
前に「老人は、あつかましくて、くさいからいや。」というのがあったが、今回はバスの中。満七十歳になると、シルバーパスが使える。最初にわずかな費用(千円のことが多い)を出すと、都内のバスや都営地下鉄に無料で乗れる。地下鉄のときは、パスを改札に通せるので問題がない。
しかし、バスは乗降のときに、パスを運転手に提示する必要がある。モタモタしているのは、そのときである。パスを出して、降りるまでに時間がかかる。最初から用意をしておけばよいのに、そのときに探したりする。
また、尊大な老人も多い。確かに社会人だったときは、それなりの仕事をしていたろう。しかし、シルバーパスを使ってバスを利用するときは、せめて他の乗客や運転手に迷惑をかけないようにしたいものである。私もシルバーパスなので、いつもそんなことを思う。
それなりに一つの宇宙、ホームページは。
苦労をして作ったホームページは、まったく次元が低くて、つまらない小さな空間である。内容の薄い各テーマの他に、夾雑物などが多く含まれていて、それを取り除きたいほどである。
しかし、そうは言ってもその時点で、自分が考えたことを正直に書いたので、私にとっては非常に重要な「記憶の断片」、さらには「一つの宇宙」もしくは「知的空間」とさえなっているのである。
また、互いに矛盾する箇所があったりもする。それは、人生の時期や時間によって、考え方が変わっていくので当然であろう。文章は、かなり長い期間をかけて、それぞれに作成したのである。そんなために後で考えると、そこには大きな矛盾を含んでしまった。まったく恥ずかしいことではあるが、それでも事実だから仕方がないと思っている。
苦労をして作ったホームページは、まったく次元が低くて、つまらない小さな空間である。内容の薄い各テーマの他に、夾雑物などが多く含まれていて、それを取り除きたいほどである。
しかし、そうは言ってもその時点で、自分が考えたことを正直に書いたので、私にとっては非常に重要な「記憶の断片」、さらには「一つの宇宙」もしくは「知的空間」とさえなっているのである。
また、互いに矛盾する箇所があったりもする。それは、人生の時期や時間によって、考え方が変わっていくので当然であろう。文章は、かなり長い期間をかけて、それぞれに作成したのである。そんなために後で考えると、そこには大きな矛盾を含んでしまった。まったく恥ずかしいことではあるが、それでも事実だから仕方がないと思っている。
こんなこと、していてよいか? 迷うことあり。
パソコンをやっていて飽きたら、気分転換にゲームをする。私は、ソリティアと将棋と麻雀。どれも、なかなかよくできている。かつてのようなバグはまったくない。そこで、つい熱中をしてしまうことがある。
ソリティアはめくりカードのない簡単なもの。それでも、十回に一度くらいしか上がれない。将棋は、バリュー将棋4というかなり本格的なもの。初級平手でやって、まずまずである。麻雀はベーシックのもので、点数の計算などもしてくれるのでありがたい。
少なくとも老化予防には効果があると思うものの、何となく非生産的。しかし、六十四枚のハノイの塔を一生の修行に行ったという僧の話があるので、考え方によってはよいことかもしれない。また、アレキサンダー大王やナポレオンのことを考えたりもする。そうは言っても、パソコンをチェンジしたときに上の三つはなくなってしまった。現在は、プレインストールされていたスパイダー・ソリティアというので、老化予防を期待する。
パソコンをやっていて飽きたら、気分転換にゲームをする。私は、ソリティアと将棋と麻雀。どれも、なかなかよくできている。かつてのようなバグはまったくない。そこで、つい熱中をしてしまうことがある。
ソリティアはめくりカードのない簡単なもの。それでも、十回に一度くらいしか上がれない。将棋は、バリュー将棋4というかなり本格的なもの。初級平手でやって、まずまずである。麻雀はベーシックのもので、点数の計算などもしてくれるのでありがたい。
少なくとも老化予防には効果があると思うものの、何となく非生産的。しかし、六十四枚のハノイの塔を一生の修行に行ったという僧の話があるので、考え方によってはよいことかもしれない。また、アレキサンダー大王やナポレオンのことを考えたりもする。そうは言っても、パソコンをチェンジしたときに上の三つはなくなってしまった。現在は、プレインストールされていたスパイダー・ソリティアというので、老化予防を期待する。
信仰の対象をもつことが人生。
人生において、信仰の対象をもっていないということは、生き甲斐を失うことではないだろうか。信仰と言っても、何も宗教にかぎったことではない。自分自身が信じることならば、それを信仰と言ってよいだろう。
信仰と言って具合が悪ければ、価値観とでも言おう。日々生きているのでも、何か充足がなければマンネリになってしまう。自分だけの価値観であるから、相手がなくてもよい。何か信仰というと、定期的に集まって、説教を聞くような錯覚をする人がいるが、そんな必要はない。
価値観の共通がなければ、自分一人だけの信仰になる。そのような場合は、集まる人がいない。それでもよいのである。人が集まれば、煩わしい問題が生じたり、トラブルが発生したりする。とくに共同して作業をするような必要がなければ、ただ一人でいるのが好ましいのではないか。
人生において、信仰の対象をもっていないということは、生き甲斐を失うことではないだろうか。信仰と言っても、何も宗教にかぎったことではない。自分自身が信じることならば、それを信仰と言ってよいだろう。
信仰と言って具合が悪ければ、価値観とでも言おう。日々生きているのでも、何か充足がなければマンネリになってしまう。自分だけの価値観であるから、相手がなくてもよい。何か信仰というと、定期的に集まって、説教を聞くような錯覚をする人がいるが、そんな必要はない。
価値観の共通がなければ、自分一人だけの信仰になる。そのような場合は、集まる人がいない。それでもよいのである。人が集まれば、煩わしい問題が生じたり、トラブルが発生したりする。とくに共同して作業をするような必要がなければ、ただ一人でいるのが好ましいのではないか。