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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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何となく「成住壊空」が解ったみたい。


私たちの生命は「成住壊空」(じょうじゅうえくう)を繰り返していることが、何となく解った。「成」は、元素が集まって一つの生命が始まること。「住」は、生命活動そのもの。「壊」は、生命体の終末。そして「空は」、生命がいわゆる空の状態になって宇宙に溶け込むこと。

そして、「成住壊」がいわゆる一生になり、「空」が死んだ後のことで次に生まれるまでの状態と考えたらよいのではないか。

私の学んだシステム論では、生命体は死ぬと当然のことながら生命体でなくなる。つまり死体になって、属性(アトリビュート)を失う。有形・無形のものを捨て去るのである。そして、無の状態になって空(くう)に溶け込む。この空の状態は、生前によほど意思の刷り込みをしっかりしておかないと、ふたたび成の状態になることが困難である。と、私は思う。
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人生は、すべからくただ空しかるべし。


旧約聖書の『伝道の書』(コヘレットの章)ではないが、人生はすべてが空しいのではないか。つまり、「空の空」なのである。

「すべからく」は「須く」と書いて、動詞の「す」に推量の助動詞「べし」が付いた副詞である。つまり、「すべし」のク語法からできた漢文の訓読による言葉。ふつう下に「べし」を伴って、何かをしなければならないというような気持ちを表す。「当然だ」というような意味になる。例えば「老いてもすべからく健康を保つべし」などと使う。

「べし」にはいろいろあって、「当然」「適当・妥当」「可能」「勧誘・命令」「義務」「推量・予想」「決意や意志」などを表す。ここでは、「べし」で当然のことながら人生がすべて空しいと言い切っているのではないだろうか。


一日に一便すると、老化の予防。


このブログを一日に、一通ずつメールする。そして、同時にFacebookなどの仲間にもする。さらに、相手が不特定多数であるTwitterにも、行ってしまう。つまり、一日一便である。そのようにすると、日記と同じ効果があって老化の予防になる。

なぜならば、記憶を書き留めることと同時に、キーインプットすることによって手先を使うからである。手先を使うことは脳に対してもかなり刺激があって、老化予防に好ましい。カントは、「手は外部に出た脳である」と言ったそうだ。

便(びん)という字は、便(べん)という意味もある。尾籠な話しになってしまったが、やはり便も一日に一回するとよい。老いてくると食べ物の量が少なくなってくるので、日ごとに出なくなるかもしれない。それでも、定期的にトイレに行って出るものは出すのが健康のためによく、老化予防としても好ましい。

一日にメール一通、必ず出そう。


急速に、自分の身体が衰えていく。そんな中で、互いの安全を確認するために、日本健康会では一日に最低は一回、メールを出すようにしている。一人暮らしの場合には、とくに好ましいと言えよう。もっとも、旅行などで出せないときは、あらかじめ何日間はメールを出さないと言えばよい。

メールと言っても、俳句や短歌などでよい。あるいは、デジカメの写真を添付してもよいでしょう。また、歌や詩吟・謡曲などを自分で録音すれば、他人が聞いても面白そうだ。

手慰さみのない老人は、何をメールすればよいのだろうか。何もなければ、そのときの気分や考えていることでもよいでしょう。例えば、「おはよう!」とか「腹減った」などでもいい。つまり、そのつぶやきが「生きている証明」であるから。そして、その一日一回以上の証明が、互いの安否になるのである。

めらめらと炎のごとく揺らぐ情熱。


古希を過ぎたこの歳になって、まだ情熱が揺らぐことがある。蝋燭(ろうそく)は消える前に、少しの時間だけ明るくなる。ぱっと一瞬の場合であることもあるが、かなり続くこともある。

宮柊二さんの作品に、
<蝋燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代(よ)過ぎぬ>
というのがある。それは、青春の挽歌とも言うべき訣別と愛惜を示している。「長き炎」はすでに過ぎ去った「若き代」と重ねることによって、暗黒の未来を暗示しているのではないか。

私のは、暗黒の未来どころではなく、すでに燃え尽きようとしているような気がする。先日来、自分自身のアイコン用に「蝋燭が燃えて揺らいでいる画像」を作ろうとしたが面倒なのと、何となくムダなような気がしたのでやめた。

ぼつぼつと自分自身の死を考える。


最近になって、親しかった人が次々と他界した。たいがい当人だが、中には奥さんに先立たれた人もいる。本人が死んだら付合いはなくなってしまうが、奥さんに死なれた男とは交際が続き、何となく情けない様子を見せられる。

奥さんがしっかりしていた人であればあるほど、残されたご主人の振舞いは哀れである。反対に、ご主人が先立ってしまったときは、それなりに奥さんも困るだろう。つまり、お互いにどちらかが欠けたら、様相が一変してしまう。

そこで、私は妻が死んだときにもあわてない覚悟をすることにした。そして、それ以上に自分自身が死んだときに、妻が困らないようにしておきたいとも思う。今さら財産を残すなどという大げさなことはできないが、せめて何がどうなっているかを整理しておきたいものである。
生きている証明などと言い、新句する。


私は「生きている証明」などと言って、日々せっせとこの新句(十九音)を作る。つまらない作品だけれど、自分なりには意義がある。また、一日に一句、わずか十九音だから大きな負担にはならない。

それは、老化予防のためにも都合のよいことであろう。つまり、考えたことや気付いたことを短い言葉で何とかまとめておくのである。

また、日々の日記として、よいかもしれない。日記は「何がどうした」というような事件性が多いようだが、新句(十九音)では「考えをまとめたメモ」のような性格が強い。したがって、後で見直すと反省することが多い。そんな意味で、手前味噌ではあるが新句(十九音)を始めてよかったと思う。

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