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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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度々(たびたび)の恥は書きすて、いたたまれなし。


「度(たび)の恥は書きすて」どころじゃない。度々(たびたび)である。そして、いつもそんなことを考える。今こうやって書いていること自体、恥の一部じゃないかと思いつつも、あつかましくも書き捨てる。

パソコンで、このブログの他にもTwitterやfacebookなどをしている。そして、それらに投稿をした記事全体が自分の恥の一部なのである。それでは何で恥さらしのようなことを敢えてするのか。それは、「生きている証明」だからである。恥をかこうが、笑われようが、自分自身が生きているということを自分自身で納得したいからである。

そして、さらに老化予防の効果を期待している。他人の文章を読んで意見を言うことも、ボケ防止の一つ。それが無視されてもよい。老人の一人遊びでもいいじゃないか。しかし、相手から意見が戻ってくると、そこから会話が始まることもある。
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世の中の役に立ちたし、生きてるうちに。


あっという間に、過ぎてしまった若かった時代。そして、考えてみれば、還暦もとっくに過ぎ、さらに古希をだいぶ以前に迎えてしまった。「古来希なり」などと言うのは自分のことでないと思っていことが、まったく嘘みたい。

考えてみなくても、「光陰矢のごとし」とはよく言ったものだ。でも、後悔をしているわけではない。あまりいいこともなかったが、それでも何となく自分には幸福な半生であった。ただ、朱子の「一寸の光陰(こういん)軽んずべからず。」という言葉には、やはり少し後悔しているかもしれないが、………

さて、これからである。年金生活者のつつましい生活であるから、世の中には金銭的な貢献ができない。したがって、世の中の役に立ちたいなどと言っても、何をすればよいだろうか。体力もないから渡邊師のような勤労奉仕などもダメ。せいぜい後輩に対してアドバイスをすることくらいになろうか。


「唯」という字を見るたびに、亡き友思う。


書物を読んでいて「唯」という字が目に付くと、はっとして大岩唯浩さんのことを思い出す。ホームページやメールの文章でもそうである。そして、十年前に亡くなった彼の冥福を祈るとともに、なつかしさが胸にこみ上げてくる。

ちょっと偏屈なところがあったかもしれないが、とても博識があって、積極的な性格であった。よく旅行などにも誘ってくださった。いま、私は都営地下鉄の大江戸線巡りをして「都営地下鉄大江戸線全駅(38駅)巡り」というレポートを作成している。

まだ、私がパソコンやデジカメをもっていなかったころだが、よく大岩さんが大江戸巡りに連れて行ってくださった。それは大江戸線が開通をしたばかりのころだった。そんなことから、「唯」という字以外にも私は大江戸線に乗ると、大岩さんをなつかしく思うのである。

これでもか? これでもまだか? 欲は果てなき。


エントロピーが増大するのと同じで、人類全体の欲は常に増えているようだ。現代社会において、その際限がないことは周知のとおり。

世間では物欲・名誉欲、そして性欲などのために犯罪が耐えない。一般的な人類や社会のことはともかく、自分自身のことを考えるとお恥ずかしい次第。物欲や性欲は還暦を過ぎたころから、さすがなくなってきた。しかし、知識欲だけはいまだに絶えない。これでもか、これでもまだか、などと意気込む。

そんなわけで、いろいろなことを調べる。そして、そんなことをしてもキリや果てがないことを知らされる。いったい自分自身は、何のために生きているのだろうか。などと、いつも考えてしまう。
プチさんは一生の趣味、続くと思う。


歩くということは、人間が生きていく上の基本的なことである。だから、生きている間は、歩き続けたいと思う。私は何とかして死ぬ前の日まで、自分の足で歩きたい。「朝は四本足、昼は二本足、そして夜になると三本足は何か?」というスフィンクスの有名ななぞがある。

プチさん(プティ散策)は、歩くことが基本である。しかし、多くを歩くことなく、一キロメートルも歩ければ十分(じゅうぶん)。たとえ歩行が困難になっても、私は杖をついてでも歩きたい。何としてでも、寝たきりにはなりたくないのだ。

プチさんを計画している範囲は広く、都内のシルバーパス利用で行けるところだけでも、とても回りきれません。したがって、プチさんは私の一生の趣味になるんじゃないかと思う。
楽しみはシルバーパスのバス小旅行。


時間が許す範囲で、シルバーパスによってバス小旅行をする。何とも楽しいかぎり。バス代がかからないのも、ありがたい。とくに、基点から終点まで行くときは、いちばん後ろの座席に座って、景色をのんびりと見ていれる。

かつて私も車を使っていた時代に、多摩地区のたいがいの道は走っている。したがって、前に通った何となくなつかしい場所をバスの窓から眺められる。また、気持ちがよくてトロトロとしてしまうことがある。自分が運転していたら、考えられないことである。

そんなこともあって、小旅行というと大げさではあるが、バスを利用した散歩というか、散歩にバスを利用するというか、いずれにしても楽しくて、ありがたいことである。
争いや戦いなどは、愚かなるもの。


自我を通すために、互いに争う。愚かなことである。国家間の戦争は、考えてみれば愚の骨頂。つまり、この上なく愚かなことである。しかし、私は国家の問題などを云々する立場ではない。また、国内の政治や経済の利権や勢力などとも関係していない。だから、自分自身の問題として考えればよい。

そこで、なるべく争いや戦いなどに関係をしないような努力をする。いちばんいいのは、あまり人間関係を増やさないことらしい。そうかと言って、まったく人のいない山中などに隠遁するわけにはいかない。

私は、非暴力主義のガンジーやイスラムと話し合いで互いの要求を解決したフェデリコ二世のことを思い出さずにはいられない。
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