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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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スパイダー・ソリティアやって、老化の予防。


Windows7にあるゲームに、「スパイダー・ソリティア」というのが入っていた。やってみると、なかなか面白い。私はあまりゲーム好きじゃないが、それでもときどきスパイダー・ソリティアをする。なぜならば、気分転換にもなり、老化予防にもなると考えるから。

若いころは記憶がしっかりしているが、加齢によって度忘れや勘違いをするようになる。仕方がないことではあるが、なるべくそれらを避けたい。そこで、スパイダー・ソリティアをするのである。

つまり、カードをどう移動したらよいかを考えるほかに、素早くマウスを操作しなければならない。それは、手を使うのである。カントは「手は外部に出た脳である」というような意味のことを言っている。確かに、指先を用いることは、老化予防の一つとして効果があるようだ。
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イライザちゃん、勉強をしてマイ・フェア・レディ。


イライザちゃんは、ずーずー弁の花売り娘だ。見かけたところ、汚くて発音もめちゃくちゃ。街の大通りで、「お花はいらんがねぇ」と大声でわめいていた。

通りかかったヒギンズ教授が、彼女に注目をした。そして、一緒にいた友人に言った。「あの話し方は、どうもいけない。簡単に治るんだがなぁ」 それから彼女の特訓が始まった。貴族社会の発音を正確にすることである。そして、数ヵ月後に晩餐会に行った。すると、誰もがどこの貴族の令嬢かと訪ねる。教授の母親まで、花売り娘だったことを見抜けない。

バーナード=ショーの『ピグマリオン』にある話。しかし、実際のピグマリオンはギリシア神話。自分の作った象牙の像に恋をした男をアフロディテが哀れに思い、その像をそのまま生きた女にしてくれる。それを脚色したものが『マイ・フェア・レディ』となった。

正専寺、ようやく尋ね当てて、やれやれ。


高幡不動駅の周辺には、神社や仏閣がある。南口から200メートルも歩くと高幡不動尊。正式には、「高幡山金剛寺」。そして、北口から100メートルで真言宗大谷派正専寺。

その正専寺である。私は地図を見てから現地に行くことが多いが、今までは所在がわからなかった。その前を何回か通っても、迂闊にも気付かなかったのである。したがって、もしかしたら地図の記述が間違っているのではないかと考えた。しかし、グーグルの地図にもヤフーの地図にも、ちゃんとあるではないか。そこで、徹底的に調べてみた。すると、やはりあった。

もしも、あなたが高幡不動駅の北口にある正専寺を見出せたら、私はあなたを注意深い人だと尊敬するでしょう。
何故か、激しい疲れ、なかなか取れぬ。


もしかしたら、もう人生に疲れてしまったのかもしれない。いくら休養をしても、疲れが残るのである。睡眠の時間が短くて、熟睡ができない。オシッコに行きたくなって、目が覚めるのではない。朝まで、ぐっすりとは眠れないのである。おそらく、自律神経の関係であろう。

なぜならば、いまやっている研究が心を疲れさすのである。研究というのは、「観音と観音経の研究」「無の研究」そして「死後の研究」である。それらは、研究をしても結果が出にくいテーマなのだ。

それでは、何でそんなテーマを選んだか。一番目は、自分自身が救われたいため。二番目は、大半が過ぎ去ってしまった自分の人生を納得したいため。最後は、いわゆる「死後の状態」の理解である。何れも人生の大問題だから解決をしようとすると、激しい疲れが生じるのではなかろうか。
口で言うだけで、身を粉(こ)にする人いない。


パスカルの『パンセ』(冥想録)に「「口のうまい人」は、そのことが悪いしるし。(四六)」とある。私も、まったくそうだと思う。現代社会には、真面目に「身を粉にして働く」人は少ないようだ。口では「社会のために」とか「国民皆さまのために」などと言って、蓄財に励む人が多い。何となく政治家や経営者には、表の顔と裏の顔があるみたい。

私の知っている範囲で少ないが、それでも困った人を助けている観音さまのような人がいる。「雨にも負けず」のように東奔西走して、病人や悩んでいる人を助けに行く。金剛寺の渡邊師も、その一人であられる。

中国の僻地に、平和な村があったらしい。そして、泥棒などいない。鍵などは必要ないし、むろん塀や柵なども不要であった。誰もが無口だったけれども、よく働いて旧約聖書のノアたちのように互いに平和な生活をしていたという。
なつかしい気持ちとともに、恥の思い出。


とてもなつかしい思い出がある。それは、まだ若かったころのこと。しかし、なぜか恥の記憶に連なっていることが多い。失敗をしたり、うまく行かなかったことである。

いろいろと考えてみると、うまく行かなくて恥をかいたことは、やはり力不足であったみたい。自分自身を過信したというか、向こう見ずであったのだろう。つまり、若気の至りとでもいうのではないか。

最近になって、考えが大いに変わった。まず根気がなくなったことと、自分の体力そのものが減少したことによって、物事の進捗がはかどらない。つい、ずるずると延びてしまうのである。そして、今後それが恥の思い出ではなく、後悔の思い出になるんじゃないかと憂慮し始めたところ。
楽しみは、施無畏の中に存在をする。


楽しみや幸福は、どこにあるのだろうか。きっと、施無畏の行動の中にあるのではないか。施無畏(せむい)はもともと仏教の言葉で、仏や菩薩が衆生(しゅじょう)の恐れ心を取り去って救うことを言う。また、観世音菩薩のことを施無畏と言ったりもする。

しかし、ここでは無報酬で社会に奉仕をすることを施無畏と言う。施無畏者と言ってもよい。そのような行動は施無畏の幸福であろう。宮沢賢治の「雨にも負けず」の中に書かれているような東奔西走は、まさしく施無畏者の行動であるに違いない。いま私の身近には、渡邊師がおられる。

真の幸福や楽しみは、意外にも身近にあるものだ。「論語」には友だちが遠くから尋ねてきたりすることも楽しみであると書いてある。暗中模索をしてあれこれと求めるよりも、簡単なことでも社会に奉仕をすれば心が晴れやかで、幸福になれるのではないか。
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