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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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大好きなダリ風の絵は、知的空間。


ダリの絵やマグリッドの絵、さらにエッシャーの絵などは何ともファンタジックである。むろん、「ダリ風の絵」であれば誰のものであってもよい。

そのような絵は、私の知的空間を広げてくれる。だから、大好きなのである。見ているとあれこれと想像をしたり、次々と考えが広がっていくのだ。そして、そんな空間に遊べる自分自身の時間が楽しい。

できたら、私もそのような作品を作りたいと思う。しかし、芸術的センスがないのでムリであろう。そこで仕方がなく、あれこれと頭の中で想像をするにとどまる。それでも、知的空間はどんどん広がっていく。とくに、他人に問うような内容でないので、それで十分だと考えている。
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二不残は、常日ごろから私の願い。


二不残(にふざん)とは、金銭を残さないことと名誉を残さないことである。つまり、一生が終わるときには金も名を残さずに、生まれた状態で死んでいく。そのような配慮が必要である。莫大な財産を残そうとしたり、何か名誉を残したいなどというのは、子供じみた愚かな幻影である。

それが死後の世界での安心立命であると考える。もしも財産が多いと、後の者たちがトラブルを起こす。また、銅像などが建っても誤解をされるであろう。名を残そうという人が多いと、銅像だらけになってしまう。

人間のすることは、なかなか完璧にはならない。他人がうらやむ状態でも、本人にとっては不満足なことが多い。そのようなギャップがあると、羞恥心や恥が残ってしまう。金と名声については、「黒い皮袋」に考え方を書いた。
作られた人は、それぞれ欠陥をもつ。


私たちは進歩をしてきたものの、未(いま)だに不完全のようである。最初に神が作ったとしても、おそらく欠陥品だったに違いない。神が完全であっても、その製品が完全と考えるわけにはいかないからだ。

完全なものを作ろうと考えても、いわゆる欠陥品ができてしまうことがある。神といえども、ご自身が思うようなものを作るのは至難の業(わざ)であったに違いない。旧約聖書の中にも、そのようなことで神が嘆かれるくだりがあるのでわかる。

人間の心は複雑で、途方のないことを考える。そして、そんなことを考えるということまでを考えてもいなかったと思われるふしがある。つまり、考えること事態が、創造者が考えていなかったことかもしれないのではないだろうか。
天地(あめつち)の大きな意思に気付かぬ愚か。


私は、天に神がいるとは思っていない。また、地下に秘密組織があることも信じない。しかし、大きな意思をもって人間を管理しているFMのようなものがあるのではないかと考える。例えば、旧約聖書に出てくるバールの神と対立するお方(かた)である。

そんなことを垣間見た感じがするようになってから、久しい。考えれば考えるほど、私たちの社会が矛盾が満ち溢れているからだ。文化が発達し、科学が進歩した今日、あちこちで愚かしいことが発生する。

戦争や紛争の勃発もそれだ。イデオロギーは正しくても、手段が軽率でないだろうか。何となくこどくの方法と似ていて、他方を食い尽くして一方が残る。残ったほうも、やがて自分自身を維持できなくなる。一部の商社や武器商人なども、その類いであろう。
「五七五」と「五七七」との違い大きい。


たった二文字の違いである。たいして違わないと考えるのではあるが、しかしやってみるとずいぶん余裕が出てくる。さらに、よいことは短歌や俳句と違う切り口で作ることができる。ふつう短詩形には、それなりの芸術性を求められるが、新句(十九音)五七七であるとそのようなことは考えなくてもよい。

それでは何を考えるかというと、私の場合は自分自身の「生きている証明」である。だから、単にメモや覚書きのような内容、つまり自分だけにしかわかりにくいような文章でも許される。むろん英語で書いても、エスペラント語でも、さらに暗号で書いてもよい。

しかし、後で自分が見て何が書いてあるのかわからないようでは困る。少なくとも自分がわかる程度の基準を作っておく必要はあろうと思う。
新句には季語なく、韻も必要でない。


新句(十九音)には季語を入れる必要がないし、韻も踏まなくてもよい。したがって、誰でも気安く、簡単に作ることができるでしょう。ただ、全体を十九音くらいにまとめればよいだけである。

季語(きご)は季題とも言って、俳句で「季節と結びつけて、その季節を表すために定められている言葉である。したがって、そんな約束を知らないと俳句ができない。

韻(いん)は、さらに面倒な約束。漢字の表す一音節のうち、頭子音を除いた部分の声調の違いにより、「平」「上」「去」「入」(ひょう・じょう・きょ・にゅう)という四声に分類をした区別。それをさらに細かく206韻としたが、後に整理をされ106または107韻となる。詩歌での韻は、同一または類似の音を一定の位置に繰り返すこと。そんなことを言っては、この新句(十九音)のように軽い気持ちでは、作品を残すことさえもできない。

よろよろと足がもつれて、転ばぬように!


駅などの階段を昇り降りするときには、転ばないように注意をする必要があります。ポケットに両手を入れたままで階段を下りるなど、絶対にしてはいけません。押されたりして転ぶと、思わぬ大怪我をするからです。

私は、階段を登るときはともかく、降りるときは細心の注意を払っています。手摺りには触れませんが、もしも倒れ掛かったときに、すぐに掴(つか)めるようにしておきます。本当は、手摺りを利用したいのですが、ウイルスに感染する心配が大きいから触れないのです。

もしも何かのはずみで転ぶと、体重があるので骨折をするでしょう。とくに下り階段では注意が必要です。エスカレータやエレベータのある駅では、なるべく利用をしたほうがよいでしょう。ちょっと格好が悪いですが危険を避けるためには、そんなことを言ってはいられません。
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