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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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どこにある? 越路吹雪と有吉佐和子。


墓ではなくて、それぞれ記念碑。いったい、どこにあったかを思い出せない。いずれも寺の境内、ひっそりとあったのを覚えている。そして、写真を撮ってどこかのページにアップしたことも覚えている。

そこで、「越路吹雪」。つい一週間前のこと。Windowsボタンを押して、「プログラムとファイルの検索」に入れる。すると、すぐに出た。実際には「越路」でOK。しかし、なぜか「有吉佐和子」はその方法ではダメ。

そこで、グーグルの検索で「有吉佐和子 site:http://riksys.web.fc2.com/」とする。単に、「有吉佐和子」とするとすべてのホームページになってしまって、大変な数となる。また、ホームページ・ビルダーの「サイト内検索」でもよい。それは、ファイルを一つずつ読んで探すので、かなり時間がかかってしまう。Windowsボタンを広げて、コンピュータから探しても、結局はGoogleになって同じこと。工夫をすることで、「越路吹雪」も「有吉佐和子」も見つかった。


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椎茸を干す老和尚、初めて見たり。


五月台駅周辺にある修廣寺(修広寺)で、「椎茸(しいたけ)を干す老和尚」の像を始めて見た。「天童山の典座和尚と若き日の道元禅師」というタイトルが付いていた。これまでに何回も文章で読んだことがあるが、その光景を像にしたものを見て、私は大いに感激をした。

つまり、中国で道元が見た椎茸を干す老いた典座僧である。身をかがめて、椎茸をほしている。おそらく、夏の暑い日差しの下であろう。道元が声をかけたのも、不思議ではない。

その老和尚は、おそらく「今干さなければ、いつになったらできるのじゃ」などと言ったに違いない。その言葉が強く印象に残ったので、道元が書き残している。そんな会話が、二人の像からわかってくる。
楽しみは、仏・観音を訪ね行くとき。


とくに初回は、その仏(ぶつ)や観音(かんのん)がどのようなお姿であろうかなどと想像をして、大いに心が躍る。何となく、まだ若いころに紹介をされて、初めて会った人のときと、同じような心境である。お見合いなどでも、おそらく同じであろう。

つまり、大きな期待と微(かす)かな不安が混在する。それは、大きさや置かれている場所などではない。全体のお姿が、もっておられるイメージである。それが、想像をしていたものと大きく異なることがある。

しかし、いちばん悪いのは、そこへ行ってもお目にかかれないことだ。秘仏やご開帳の日が決まっていて、拝顔できない。改めて行けばよいのであるが、私は面倒なのでたいがい行かない。もしも行って、期待とは異なっていたら、失望がそれだけ大きくなるからである。
あきらめは、手っ取り早い「われ足るを知る」。


諦(あきら)めちゃうというと、何となく消極的で厭世的。しかし、高齢になると大切なことだ。京都の有名な寺にある蹲(つくばい)「吾、ただ足るを知る」というのは、古来からの哲学者の教えであろう。似たようなデザインのものが、多摩センターのパルテノン裏にあった。丸いまん中の水が出る部分に「口」があって、上に「五」、右に「隹」、下に「止」、左に「矢」のようにデザインされている。「口」を下・左・上・右にして読むわけである。

私も、還暦を過ぎたころから、そのようなことの大切さをつくづくと知った。こころの平安のためには、いわゆる諦めも必要である。

老子やマルクス=アウレリウスなど、東西の哲人が残した言葉として、大いに考えなければならない。
在るもので工夫をすると、心が豊か。


在るもの、在る物、有るもの、有る物などを工夫して使っていると、何となく心が豊かになる。つまり、喜びが増したり、豊かさが増すのだ。

「吾、唯、足るを知る」という言葉をご存知だろうか? 蹲(つくばい)に配置をした文字で、中心の水が出てくるところが「口」。その上には「五」、右に「隹」(ふるどり)、下に「止」、左に「矢」が配してある。

欲しいものを求め続けるのも、それなりによいだろう。しかし、やがてキリがないことに気付く。そこで、現時点で自分自身が持っているものを工夫することを考える。すると、結構いろいろなことができることがわかる。そんなことをしていると、心が豊かになって、何となく人生が充実してくるから不思議である。
新しい出会いを求めて寺を経巡(へめぐ)る。


まだ行ったことのない寺を私が経巡っているのは、仏像や観音像との新しい出会いを求めるためである。ご本尊になっていて、ふだんは外から見れない像や、いわゆる秘仏などは対象外だ。いつ行っても、境内に佇(たたず)んでおられる像などが、私の目的なのである。

仏や観音などと言っても、所詮は人間の作ったものである。しかし、それでも一種の芸術作品となって、単に信仰の対象ばかりでなく、鑑賞のターゲットとなるのでうれしい。

境内をぐるっと回ると、はっと息を飲むような像があったりする。あまり有名でない像であっても、たまたま行ってお目にかかることがある。そんなときは、至福の至りで何とも運がよかったなどと思う。それこそ、仏さまや観音さまのお導きではないかなどと考えるのである。
いつまでも若くありたし、ムリな願いか?


「ウルマンの詩」にあるような心がけをしているのだが、やはり現実は厳しい。ここのところ、足が萎え始めていたり、内臓がダメになりかかっているようだ。気をつけているのだが、致し方ない。

しかし、同じ年でも若々しい人もいる。髪の毛も白くなくて、むしろ黒くてつややかである。さらに、その人の言うことも老いた感じがない。

最初から「ムリな願い」だろうかなどと考えるのは、すでに老いてしまっている証明かもしれない。老いなどを感じること自体が、老いている証拠であろう。生老病死(しょうろうびょうし)などをことさらに考えるのは、人間だけかもしれない。病むときに病み、死ぬときに死ぬのがよろしい。それが、自然界の掟である。あまり、あれこれと考えること自体、老いを早める結果になるのかもしれない。
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