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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


最近になって、なぜかかなり過去に行った場所に何となくなつかしさを感じ、もう一度そこへ行ってみたいなどと考えることがある。帰趨本能とでもいうのだろうか、また犯罪者が現場に戻ってくる心境などと同じかもしれない。

とくに悪いことをした場所ではないが、それでも記憶に鮮やかに残っていて、それが引き寄せるみたいである。しかし、思い出そうとしてもどこだったかを忘れてしまった場合、つまりどこかわからない場所が多い。また、すでにない場所もある。開発などで、すっかり変わってしまったところ。里山などであったところなどは、もはやそこにはない。

記憶と言うのは不思議なもので、ない場所をとくになつかしく思うようである。それは、自分自身の心の中にだけある遺物とでもいえようか。
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「夢十夜」、「夢」と記憶が錯綜したり。


錯綜などと言ったが、交錯でもよいだろう。錯綜とは、物事が複雑に入り交じって混乱することであり、交錯は物事が複雑に入り組んでいること。つまり、どちらも入り交じって混乱することである。

一つは、学生時代に読んだ夏目漱石の「夢十夜」。細かいストーリは、もはや忘れてしまったが、その何となく不気味さをもつ記憶は、いまだに忘れられない。朗読を聞くと、若いころの感情までが鮮やかによみがえってくる。

いっぽう「夢」は、黒澤明監督の映画。むろん、すべて映像化をして綴られている。しかし、私には何となく「夢十夜」のイメージに似た内容が多いようだ。いずれの作品にも、ほんの一部ではあるが、涙が出てくるほどなつかしさを感じる箇所がある。そのなつかしさを感じるところなどが、時代・媒体の異なる二つの作品を錯綜させるのではないだろうか。
秘書さんにいただいた紫蘇、おつまみになる。


梅干は、やわらかく上品な味である。その梅干を漬けたときに用いた梅酢もおいしい。どのようにいただくかというと、夏のそうめんやひやむぎのつゆにそのまま使う。

さらに、梅酢に入っている紫蘇の葉と茎。お母上のお考えで、梅酢に焼酎が入っているらしい。そのためであろうか、紫蘇の茎は歯ざわりがよいことと、何とも口に馴染んだ落ち着いた味がしてよい。そんなわけで、私は大好きである。

とくに夏のビールのおつまみに最高。いつも少しずつ切り出して食べる。紫蘇の葉と茎、そして梅干を一つ。それで大いに満足である。ビールがなくても、梅酢を夏は冷やして、冬はホットで飲むと健康にとてもよいと思う。秘書さん、お母上、どうもありがとう。
人生に疲れてはダメ、老いの初めは。


とくに老いの初めに、疲れが出てくることが多い。もしかしたら、身体の変調があるのかもしれない。女性は成熟期から老年期へ移行する時期に、更年期(メノポーズ)がある。ふつう、五十歳近くなって始まる閉経期前後の数年間をいうようだ。しかし男性にも、似たような症状がある。

それは閉経期前後ではないが、男性自身が衰えてくる時期で、個人差があるのでいちがいに言えないが、ふつう還暦のころ。やはり、更年期障害といってもよい現象が目立ってくる。

だから還暦のころから、疲れないようにしなくてはいけない。とくに、古希を過ぎたら自重すべきである。若いころのようなムリをしないで、スケジュールなど余裕をもたせ、つねに余力を残しておくことが大切。したがって、散歩なども強行軍してはいけない。
信じるか、信じないかは個人の力量。


科学的に証明できないことが、あまりにも多い。そんなことを理解するのは、なかなか難しい。また、それを誰かに理解させようとすることは、至難の技と言ってよいだろう。

現代人は、科学が万能と考えている。そのこと自体、私は疑問に思っているのだが、どうも表面的に物事を見ているのではないか。解決ができないこともあって、それがほとんどであるなどとは考えない。

そんなところに現代人の傲慢と錯覚があるようだ。おそらく、人知で解決できないことがほとんどであって、よしのずいから天井のぞくではないか。つまり、葦の茎の髄(管)を通して天井を見ても、その全体が見えないように、独自の狭い見識に基づいて物事を判断することの愚かさを言っている。そのことに、本人は一向に気づかないのである。
願わくは、分かち合いたい知的空間。


知的空間については、それぞれの考えがあるだろう。しかし、互いにそれを論じ合うと、学ぶべきことが多い。自分なりに考えていたのでは、我田引水になってしまって、発展ができない。

そこで願わくば、互いに知的空間を論じ合えればよい。だが、なかなかそんな相手はない。西行の短歌に、「身をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけり」とある。二十三歳で出家・遁世(とんせい)をした西行は、「すつる」(捨てる)を三回も、そしてさらに「すてぬ」(捨てぬ)を織り込んで、「死」や「捨」や「無」を考えていたに違いない。

そんな西行ではあるが、「さびしさに たへたる人の またもあれな 庵(いおり)並べむ冬の山里」とも言っている。つまり、「私と同様に、このような寂しさに耐えて暮らしている人がいればいいんだが。そうしたら、この山里に庵を並べて住めるんだがなぁ」つまり、知的空間を分かち合いたいという願いだろう。
何事もめんどうになる、疲れたるとき。


疲れているときは、何事もめんどうくさい。つまり、何をするのも、億劫なのである。気力が湧かないというよりも、最初から何かをする気が、まったく生じないというのが事実。

そもそも、そんな状態になってはいけない。したがって、まず疲れないようにすることが大切。とくに慢性の疲労、つまり疲労困憊(ひろうこんぱい)の状態になってからでは、もはや手遅れである。

気力がなくなったら、自分自身で気分の転換を計るのもよいでしょう。能率の悪いことをいつまでもダラダラと続けるよりも、別の何かをしたほうが増しだ。そして気分が改まったら、再びもとの作業に戻ればよい。そのようなことが、最近になってわかってきた。
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