rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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「駅長のまち案内」は、有りがたき地図。
都営地下鉄の駅でくれる「駅長のまち案内」というA4一枚の地図は、何とも有りがたい。駅ごとにあるのだが、中には複数の駅がまとまっている区域もある。その場合は、A4二つ折りになっているが、縮尺が小さくなってしまう。
表には、その駅の出入り口の位置、そしてエスカレータやエレベータがあるかどうかなどの情報。裏は、駅周辺の地図。半径500メートルの範囲が、円で示されているのも、プチさん(プティ散策)をするときに便利である。
階段を登るときは大丈夫だが、問題は下るときである。体重が足にかかって膝をやられてしまう。だから私はホームへ降りるとき、なるべくエスカレータかエレベータを利用する。老いても、末永く歩けるように。
都営地下鉄の駅でくれる「駅長のまち案内」というA4一枚の地図は、何とも有りがたい。駅ごとにあるのだが、中には複数の駅がまとまっている区域もある。その場合は、A4二つ折りになっているが、縮尺が小さくなってしまう。
表には、その駅の出入り口の位置、そしてエスカレータやエレベータがあるかどうかなどの情報。裏は、駅周辺の地図。半径500メートルの範囲が、円で示されているのも、プチさん(プティ散策)をするときに便利である。
階段を登るときは大丈夫だが、問題は下るときである。体重が足にかかって膝をやられてしまう。だから私はホームへ降りるとき、なるべくエスカレータかエレベータを利用する。老いても、末永く歩けるように。
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砂糖・塩、やめて久しく糖尿治る。
かなり重篤な糖尿病になったことがある。もしかしたら、「失明か人工透析になる」と医者に言われた。そこで、完治をさせる決心をせざるをえなかった。長期間で患った病気は、薬物では治りにくいとも考えたからだ。やはり、ある程度の期間をかけて、食事療法と生活習慣によって治すのがよいだろう。
そこで考えたのが、砂糖・塩の忌諱。台所には、砂糖・塩を置かない。初めは味付けが物足りなかった。野菜などは煮るときも、炒めるときも味付けをしない。むろん食べるときにも、マヨネーズ、ドレッシングなどを用いない。そんなことを一年もしたら、尿糖が出なくなってしまった。
最近は、小豆を煮たもの、つまりお汁粉も甘くしない。すると、ほのかな小豆のおいしさが味わえる。野菜も、野菜そのものの甘さがおいしい。そのものの味が、味付けをしないと楽しめるということがわかった次第。
かなり重篤な糖尿病になったことがある。もしかしたら、「失明か人工透析になる」と医者に言われた。そこで、完治をさせる決心をせざるをえなかった。長期間で患った病気は、薬物では治りにくいとも考えたからだ。やはり、ある程度の期間をかけて、食事療法と生活習慣によって治すのがよいだろう。
そこで考えたのが、砂糖・塩の忌諱。台所には、砂糖・塩を置かない。初めは味付けが物足りなかった。野菜などは煮るときも、炒めるときも味付けをしない。むろん食べるときにも、マヨネーズ、ドレッシングなどを用いない。そんなことを一年もしたら、尿糖が出なくなってしまった。
最近は、小豆を煮たもの、つまりお汁粉も甘くしない。すると、ほのかな小豆のおいしさが味わえる。野菜も、野菜そのものの甘さがおいしい。そのものの味が、味付けをしないと楽しめるということがわかった次第。
何となく、大観音を訪ねてみたり。
幼いころ、鎌倉の扇ガ谷(おうぎがやつ)に住んでいた。大仏切通しと言った小さなトンネルを抜けて、高徳院の大仏を見に行ったものだ。当時は、長谷観音とともに入場料などは取らなかった。もっとも、大仏は銅の目方で売りに出されたが買い手がないままに、そこに鎮座ましましていたのかもしれない。
長谷観音の記憶は薄いが、大船の観音さまは現在でも強烈な印象に残っている。その後も、電車でそこを通るたびに、かつての記憶を甦らせる。
大きな観音様に魅力を感じる。人が作ったものであるが、それでも別な次元に誘ってくれるからだ。観音さまのおられる寺は多いが、秘仏などと言って、ふだんは見れないことがある。しかし、大観音はいつでも見れることが多いので、大仏とともに「大仏・大観音」アルバムを作った。
幼いころ、鎌倉の扇ガ谷(おうぎがやつ)に住んでいた。大仏切通しと言った小さなトンネルを抜けて、高徳院の大仏を見に行ったものだ。当時は、長谷観音とともに入場料などは取らなかった。もっとも、大仏は銅の目方で売りに出されたが買い手がないままに、そこに鎮座ましましていたのかもしれない。
長谷観音の記憶は薄いが、大船の観音さまは現在でも強烈な印象に残っている。その後も、電車でそこを通るたびに、かつての記憶を甦らせる。
大きな観音様に魅力を感じる。人が作ったものであるが、それでも別な次元に誘ってくれるからだ。観音さまのおられる寺は多いが、秘仏などと言って、ふだんは見れないことがある。しかし、大観音はいつでも見れることが多いので、大仏とともに「大仏・大観音」アルバムを作った。
思いつき、三ノ輪橋から早稲田まで乗る。
先日、三ノ輪橋の大観音を見に行った。その帰りに、思いついて三ノ輪橋駅から早稲田駅まで、都電荒川線に乗ってみた。起点から終点までで、全部で三十駅がある。
三ノ輪橋・荒川一中前・荒川区役所・荒川一丁目・荒川七丁目・町屋駅前・町屋二丁目・東尾久三丁目・熊野前・宮ノ前・小台・荒川遊園地前・荒川車庫前・梶原・栄町・王子駅前・飛鳥山・滝野川一丁目・西ヶ原四丁目・新庚申塚・庚申塚・巣鴨新田・大塚駅前・向原・東池袋四丁目・都電雑司ヶ谷・鬼子母神前・学習院下・面影橋・早稲田である。
空いていたからよかったが、乗り降りが多いので何となく落ち着かない車内。また、走行速度が遅いせいか急いでいるときには、いらいらするのではないだろうか。三ノ輪橋にはあったが、早稲田にはトイレがない。
先日、三ノ輪橋の大観音を見に行った。その帰りに、思いついて三ノ輪橋駅から早稲田駅まで、都電荒川線に乗ってみた。起点から終点までで、全部で三十駅がある。
三ノ輪橋・荒川一中前・荒川区役所・荒川一丁目・荒川七丁目・町屋駅前・町屋二丁目・東尾久三丁目・熊野前・宮ノ前・小台・荒川遊園地前・荒川車庫前・梶原・栄町・王子駅前・飛鳥山・滝野川一丁目・西ヶ原四丁目・新庚申塚・庚申塚・巣鴨新田・大塚駅前・向原・東池袋四丁目・都電雑司ヶ谷・鬼子母神前・学習院下・面影橋・早稲田である。
空いていたからよかったが、乗り降りが多いので何となく落ち着かない車内。また、走行速度が遅いせいか急いでいるときには、いらいらするのではないだろうか。三ノ輪橋にはあったが、早稲田にはトイレがない。
楽しみは温故知新を繰り返すとき。
「温故知新」という言葉がある。『論語』為政第二にある
「一一 子の曰わく、故(ふる)きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。」
から来ている。つまり、過去の事実を研究して、そこから新しい知識や見解を求めていくこと。
「温故知新」(おんこちしん)は「故(ふる)きを温(あたた)めて、新しきを知る」と読む。「温」を「たずねて」とする説もある。「温故」であって、「温古」でない。
私は、何回も同じことを繰り返す。その行動は、まったく愚かに見えるらしい。しかし、何回も同じことをしていると、見方も変わってくる。そして、意外に別な考えが浮かぶ。だから「温故」は、楽しみなのである。
「温故知新」という言葉がある。『論語』為政第二にある
「一一 子の曰わく、故(ふる)きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。」
から来ている。つまり、過去の事実を研究して、そこから新しい知識や見解を求めていくこと。
「温故知新」(おんこちしん)は「故(ふる)きを温(あたた)めて、新しきを知る」と読む。「温」を「たずねて」とする説もある。「温故」であって、「温古」でない。
私は、何回も同じことを繰り返す。その行動は、まったく愚かに見えるらしい。しかし、何回も同じことをしていると、見方も変わってくる。そして、意外に別な考えが浮かぶ。だから「温故」は、楽しみなのである。
分類を体系付けることが必要。
「分かる」という言葉は、「分ける」から来たのではないだろうか。その結果、「分かる」は「理解をする」とか「了解をする」という意味になろう。意味や区別などをはっきりさせるためには、まず分類をしっかるする必要がある。「物のよしあしが分かる」と言えば、分類をしてどのくらいの位置にあるかを知っているということである。
物の分類も大切ではあるが、知識や記憶の分類はさらに重要になってくる。どこに何があったかわからないというのでは、まったく困ってしまうからだ。
もしも誰かに、「あなたの言わんとすることはよく分からない」といわれたり、「言っていることの内容が理解できない」などと言われたら、お互いに分類の仕方や整理の方法などが異なっているために、理解の方法が食い違って、相互のベクトルが合わないのであろう。
「分かる」という言葉は、「分ける」から来たのではないだろうか。その結果、「分かる」は「理解をする」とか「了解をする」という意味になろう。意味や区別などをはっきりさせるためには、まず分類をしっかるする必要がある。「物のよしあしが分かる」と言えば、分類をしてどのくらいの位置にあるかを知っているということである。
物の分類も大切ではあるが、知識や記憶の分類はさらに重要になってくる。どこに何があったかわからないというのでは、まったく困ってしまうからだ。
もしも誰かに、「あなたの言わんとすることはよく分からない」といわれたり、「言っていることの内容が理解できない」などと言われたら、お互いに分類の仕方や整理の方法などが異なっているために、理解の方法が食い違って、相互のベクトルが合わないのであろう。
あいたいだ、しりそとともに記憶に残る。
さらに、いんきしりむしんやおうおうたいえいなども、強烈なインパクトを私に与える。『荘子』が読めたなどと、つい思ってしまう。とんでもないことである。逆説や裏の裏までは、とうていわかるまい。また、郭象が自分の考えで書き直したことなどは、もはや見抜けないだろう。バチカンで書き直した福音書と同じで、原点の論理が失われているからである。
あいたいだはすごい醜男(ぶおとこ)であっても、男たちは彼を慕って離れないし、女たちは「他人の妻になるよりは、あの人の妾(めかけ)になりたい」と言い出す始末。しりそはもっとひどく、顎(あご)は臍(へそ)の辺りまで、肩は頭のてっぺん、股(もも)は脇腹にぶつかっている。それでも仕事をして生きていける。徴兵に行かなくてもよく、手当てもいただける。そして、何人かの人を雇う資力さえもある。
つくづくと私は、人の魅力が身体の形だけではないことを思い知らされる。
さらに、いんきしりむしんやおうおうたいえいなども、強烈なインパクトを私に与える。『荘子』が読めたなどと、つい思ってしまう。とんでもないことである。逆説や裏の裏までは、とうていわかるまい。また、郭象が自分の考えで書き直したことなどは、もはや見抜けないだろう。バチカンで書き直した福音書と同じで、原点の論理が失われているからである。
あいたいだはすごい醜男(ぶおとこ)であっても、男たちは彼を慕って離れないし、女たちは「他人の妻になるよりは、あの人の妾(めかけ)になりたい」と言い出す始末。しりそはもっとひどく、顎(あご)は臍(へそ)の辺りまで、肩は頭のてっぺん、股(もも)は脇腹にぶつかっている。それでも仕事をして生きていける。徴兵に行かなくてもよく、手当てもいただける。そして、何人かの人を雇う資力さえもある。
つくづくと私は、人の魅力が身体の形だけではないことを思い知らされる。