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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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十三の霊場めぐり、今年も元気。


多摩十三仏霊場というのがある。
それは、一番から十三番までに

不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿門如来(ただし、門の中には「人」が三つ。「あくしにょらい」と読むのだろうか?)・大日如来・虚空蔵菩薩

が安置・祀られている寺である。
何回かに分けて、秋の素晴らしい青空の日々に回り終えた。
私は現在、通院している状態ではあるが、まだ何とかプチさん(プティ散策)ができる。有りがたい限り。

木々が、すっかり紅葉している。
もうじき、木枯らしが吹いて、ジングルベルが鳴って、やはり今年も終わるであろう。後、何年生きられるであろうか。



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誰も見ぬホームページをなぜ作るのか?


一言にいえば、自分自身が「生きている証明」なのである。
それでは、誰に証明をするのか。それも、自分自身に対する証明でよい。
つまり、自己満足というか心の安心立命のためなのである。

それは、あたかも日記帳のようなもの。
日記帳も、そんなに深く考えてつけるものでもない。気軽に記述する人が多いのではないか。

みっともないものでも、自分がよければそれでよい。当然のことであるが、インターネットにつながっているので、誰でも見れる。人が見ることよりも、私は自分自身のホームページ内をグーグルやヤフーで、瞬時に検索ができるので有りがたい。
私は、「見せない」とか「見るな」とは言わないが、「見てもレベルが低いので、面白くはないでしょう」とは言う。

なぜならば、ホームページは私自身の「生きている証明」であって、自己満足にすぎないから。


知的なる、かなり独自な空間作る。


私は、今まで心の中にかなり独自な空間を作った。(と思っている。)
そして、それを自分なりにまとめてみたいとも考えている。
なぜならば、支離滅裂に思われるような理論展開であっても、それなりの構築理由があるからだ。

そのようなことをまとめていると、自分自身でも考えが整理できたり、展開が図れる。そして、その中で考えを自由に飛翔できる。それは、なんとも楽しいことではないか。

私は、もうじき死ぬであろう。したがって、安心立命したいんだ。
そこで、最終的には宗教なども、自分自身用に作っておこう。なぜならば、現時点では自分自身が納得する既存の宗教がないからである。

芸術などもそうであるが、いかに偉大でも自分がその中に入れないものでは仕方がない。大作曲家の交響曲などでも、私には「猫に小判」みたいなことがある。「早く終わればよいなぁ」などとさえ、考えることが多いからだ。



木漏れ日の道を歩けば、カッコウが鳴く。


小山田の林道を歩いていると、カッコウが鳴いている。
何となく、楽しくなってしまう。

また、季節によってはウグイス・ヤマバトなども。
ウグイスは、まだ谷渡りのようであって完全には鳴かないときが多い。ちょっと練習をしているみたい。
ヤマバトは、ドドッーポ・ドドッーポと何となくさびしげ。

また、夏の暑い盛りには蝉しぐれ。かしましいばかりだ。ここのところ、すっかり涼しくなったので、秋の虫が忙(せわ)しげに鳴いている。
そんな素敵な道を歩いていると、なんだか懐かしい気持ちがしてくる。何となくデジャビュとでもいうのだろうか、かつて幼いころに経験をしたような気がすることがある。

それが、どこだったかは思い出せない。
もしかしたら、母の胎内にいたときかもしれないと思ったりもする。
あなたにも、そんなことがありますか。



ユリカモメ群れなし飛びて、いずくにか行く。


多摩川の砂州で、ユリカモメの一団が羽を休めていた。
聖蹟桜ヶ丘駅付近であるから、海からはかなりの距離がある。鳥たちは散歩というか、物見遊山に来ているのではないだろう。小魚を啄(つい)ばんで、食べるためである。つまり、日々の食事に来ているのではないか。

そう言えば、カワウなども群れなし飛んで来ていることがある。
そのカワウは、上野動物園の中の島から来るそうだ。山科の人が言っていたので、ほんとうだろう。

餌の小魚を求めるために、鳥たちは遠くまで飛ぶようだ。
近所に餌場がないときは、かなり遠くまで行く。むろん、野生の彼らの間には経済などないだろうから、居ながらにして食事にありつくことはない。
動物園でなかば飼われているカワウでも、集団で餌を求めて飛来する。

ユリカモメは、満腹して羽を休めたのであろうか、しばらくすると全部が飛び去っていった。鮮やかなものである。
することを少なくすると、日々は安らか。


若かったころは、「あれもしたい、これもしたい」などという気持ちが強かった。しかし、高齢になって体力が衰えるにしたがって、次第にそのような気持ちが減って、あまり起こらなくなる。
自分の体力の限界を知ったからであろう。

つまり、その気持ちはあったとしても、身体や気力が追いつかないのだ。いきおい、何事も中途半端になってしまう。そして、中途半端すると後で後悔をしたり、心の葛藤が生じる。

そんなことを考えると、高齢になったら、日々生きていくためにすることをなるべく減らすほうがよいかもしれない。必要な最小限のことだけをしていれば、心のゆとりが出てくるんじゃないか。

年金生活者になってからは、むろん仕事のノルマなどはない。だから、考え方を変えて、日々を気楽にゆくことが健康のためにも大切だろう。


足萎えは仕方がないが、めしいちゃうは、や!


先日、蒲田時代にご一緒したTさんのお見舞いに行った。
すでに、彼は寝たきりで動くときは車椅子。そして、片目が見えない。
実は、見舞った私もここのところ、どうも体調がよくないのである。
そこで、ぼつぼつある程度の覚悟を決めておかなければならないだろう。

おそらく、足の故障を起こすのではないか。今までに、かなり重い体重を支えてきたからだ。膝なども、もしかしたらすでにすり減っているのかもしれない。

しかし、いちばん心配なのは目。糖尿病から、失明をしてしまうんじゃないか。
何としても、めしいてしまうのは、やだやだ。車椅子は仕方がないが、目が見えなくなっては、テレビも見れないし、パソコンもできない。

でも、当然の成り行き。
ここのところ、インシュリンの出が悪くなって、食事をした後は数時間も尿糖が残るようになってしまった。昨年の入院・手術の後にホメオスタシスすべてが狂ってしまい、通院をしていても治らない。
ぼつぼつ覚悟を決めておいたほうが、よいのだろうか。
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