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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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何故に迫り来たるか、破滅願望?


どうしたことだろうか、最近になって「もう終わっても仕方がない!」などというような終末観が心に起こる。日々何とか真面目に生きているのだが、どうしてそんなことを感じるのだろうか。

確かに、現代の生活はコンフォタブル。細分化された学問・科学・政治・経済などのお陰である。食生活や交通など、昔には考えられなかったほど便利。しかし、一方では人類の愚かさなどが見えてくる。全体の見える人が少ないためか、いわゆる「群盲象を評す」ようなことが多い。

さらに上の次元で見たら、どうだろうか。例えば神の目で見ると「滅びの日」にふさわしいのではないか。そもそも地球自体が「大きな船が行き先もわからないままに、航海をしているようなもの」ではないか。もっとも、私もその中にいるのではあるが、……。
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何故に恥の思いが迫りて来るか?


なぜだろうか? 執拗に身に迫ってくる恥の思い。存在そのことが恥として、まとわり付いてしまったようだ。恥は、罪に似た概念であろうか? それとも、後悔の一種なのか?

スピノザが言うような二度ではなく、数十回、数百回も繰り返しながら、そして他の後悔も怒涛のように関連してくる。まったく不幸の連続である。いつの間にか恥という概念が一つ、身に付いてしまった。

「あなたは、いったい何が恥ずかしいのですか?」
「存在そのものが恥ずかしいのですよ」
「存在ですか?」
「そうかと言って、存在をなくすことも恥ずかしいのです」
「……」
同じ句や、似たような句があってもOK。


この新句では、同じ句があってもよい。まったく、同じくでもよいのである。なぜならば、文学というよりも、日々記憶の断片であったり、生活の知恵であるから。

『論語』に、
<子の曰わく、巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すく)なし仁。>
というのが二つある。一つは、最初の「学而第一」。そして、もう一つは私のテキストでは、
<子の曰わく、巧言令色、鮮(すく)なし仁。>
となっていて、巻第九の「陽貨第十七」である。

これは、もしかしたら編集者が気づかずに、二つを入れてしまったのかもしれない。しかし、さらに勘ぐれば、非常に大切な内容であるから、別のところに再掲したのではなかろうか。
この冬を越せるか否か、心配もあり。


毎年のことであるが、秋になると妻と話す話題。なぜならば、親しかった人はほとんどが冬の寒い時期に亡くなっている。死因の多くは、脳梗塞や心筋梗塞である。以外にも、ガンは少ない。

私も妻も、とくに血圧には注意をしている。140以下・90以下であることが多いが、ちょっと油断をすると境界値になることもしばしば。例えば、コーヒーをお変わりして飲んだりすると、……。

何とかして冬にも元気でありたいと思い、いろいろと注意をしている。銭湯に行って、水風呂を利用するなどグルミューの回復を図った。一年ほどかかったが、抹消血管抵抗が小さくなったせいか、血圧が10ほど下がった。また、食塩を調味料として使わなくなったことも、血圧を下げる原因になったと思う。
バス自由自在に乗って、プチさんをする。


足が少し不自由になってから、ムリをして歩かないことにした。かつてのように強行軍をすると、膝の部分が痛くなってしまうからだ。そこで、バスを利用する。

バスに乗って目的地の近くまで行くと、プチさん(プティ散策)全体の歩く距離を少なくすることができる。私は、聖蹟桜ヶ丘駅や京王八王子駅などを基点とすることが多いが、始発ターミナルなのでほぼ時間通りに来る。また、屋根があるので雨模様の日でも平気。

都合のよいことに、たいがいのところは帰りのバスの路線がいくつか重複をしている。したがって、時間当たりの本数が多くなって、そこでの待ち時間は少なくてすむ。そんなわけで、目的地が複数あって離れていると、バスを乗り継ぐことが多くなった。やってみると、なかなか便利で楽しいものである。

くたくたになって帰ると、写真の整理。


最近になって、右足の具合が悪いために、少し歩くと疲れてしまう。それでも数キロ歩き、聖蹟桜ヶ丘駅まで帰ると食事をして、さらにコーヒーをいただく。そして帰ってシャワーをすると、かなり疲れてくたくた。

しかし、その日のうちにプチさん(プティ散策)で歩いた場所の写真を整理してしまう。なぜならば日が経ってしまうと、どこの何かを忘れてしまうから。

まず、水平位置の確認・修正。場合によっては、遠近歪みを補正する。それからトリミング。最後に400×300サイズに加工する。撮った写真のうち、4分の1くらいを使用。それ以外のものは、原画エリアから削除をしてしまう。
熱演のオイストラフの頬(ほほ)がぷるぷる。


「David Oistrakh plays Tchaikovsky Violin Concerto」の一場面である。熱演のオイストラフの頬(ほほ)が、ぷるぷると揺れる。ちょっと太り気味のヴァイオリン奏者だからであろうか。

演奏は素晴らしいのであるが、聞いていて何とも愉快である。モノクロ画面に、気むずかしそうなオイストラフが写っている。熱演であるが、独奏ヴァイオリンが休符のところで、ハンカチを出してしきりに汗を拭く。

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、かなり難しい曲であるらしい。その当時ロシアで最も偉大なヴァイオリニストであったペテルブルク音楽院の教授レオポルト=アウアーは楽譜を読むと、演奏不可能として初演の依頼を断ったという。
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