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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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この箱の中に、無限の可能性あり。


この箱というのは、無限の空間をもっているとも言ってよい私のパソコン。
2010年7月に購入した「DELL studio XPS モニタセットパッケージ」である。CPUは「2.80GHz、8MB L3キャッシュ」で、メモリは「8GB(2GB✕4)。それに、ハードディスクが1TBが付いている。生まれて初めての、1テラバイトだ。しかし、まだ一年にもならないのに、ずいぶんと使ってキーボード上の「K」は、すでに刻印がはがれてしまった。

私には大きな夢が二つあった。一つは、昭和二十年(六歳)ごろ。広い道路で自動車を運転したいと思った。それが、間もなく大型免許と自動二輪の免許を取って、夏のアルバイトでチリ輸出用のバスをテスト走行した。国内の路線バスよりも一回り大きく、現在の空港バスの大きさで左ハンドルだった。

もう一つは、昭和三十五年(二十歳前後)。一生の間に、自分用コンピュータを持ちたいと思った。LGP-30という米軍が払い下げたコンピュータが学校にあったからだ。いずれも、科学技術の急速な進歩で、夢が早く実現した。
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グーグルの地図見ていれば、時間忘れる。


グーグル(Google)の地図を見ていて、時間を忘れてしまうことがある。「あれは、どこだったかなぁ?」などと思案をして場所を探しているときである。前に行っているので、なつかしい気持ちがする。なおさら、探し求めたい気持ちがつのって深い。

こんなことがあった。狛犬ではなくて蛇が蜷局(とぐろ)を巻いているところがあったが、それがどこだか思い出せない。京王高尾線の駅だったと思うが、いずれにも見当たらない。そこで、Windowボタンの検索で「蛇観音」とやってみた。すると、鐘ヶ淵駅周辺と出た。そして、そこの記事から西国立駅周辺の矢川弁財天だということがわかった次第。

ここには簡単に記述したが、実際には半日がかりの作業。そんな努力をするのであるが、それがそれなりに楽しい時間である。したがって、時間が経っていくのを忘れてしまう。


思えらく、意味なくムダな日々の生業(なりわい)。


思えらくは「以為らく」「謂えらく」とも書き、「思っていることには」とか「考えるには」という意味。しかし、ここで私は「よくよく考えてみれば……」という意味に使う。

つまり、あるとき静かにして、よくよく考えてみれば、何となく日々の生活そのものがムダで、無意味なような感じがすることに気付いたということ。そして、人生に意義があるなどということは、単に脳の錯覚や幻想にすぎないのではないかとさえ疑念を抱く。

単に、生きていることはそれ自体が目的なので、金を貯めるとか、有名になるなどということは、妄念に過ぎないのではないか。そして、そんなことに努力をして人生が過ぎてしまう。それはそれでよいと思うが、もともと「ないものをあると脳が考える」のは、やがて破綻(はたん・はじょうではない)を来すのである。
これでもか、これでもまだか? それが現代。


「これでもか?」「これでもまだか?」というように、欲求を追及させるのが現代社会。むろん、その波に乗る自分自身がいけないのだが、社会の仕組みがそのようになってしまっているので、いかんともしがたい。中には卑近な例で、ブログ・Twitter・Facebookなどに、精力的に自己の意見を出し続ける。

したがって、金持ちがますます金持ちになろうとしたり、有名人がさらに有名になろうとする。そんなことをすれば、やがて破局があるのはわかっている。まったく、愚かしいことである。

現代社会において、「吾ただ足るを知る」などと考える人は、非常に少ない。生きている限り、精力的に金銭を求めたり、あくなきほど名誉を求め続ける。何とも、際限のない意味のないことだ。それは、ちょうど「カエルの腹自慢」と同じことではないか。やがて、自分自身がアウトになってしまうことをすっかり忘れているからである。
日々続く運動不足、習慣病に。


運動不足が日々続くと、つもりつもって生活習慣病を招いてしまう。したがって、常に運動不足にならないようにしなければならない。運動不足の解消は、必ずしも歩かなくてもよい。例えば、バスに乗っているだけでもよい。乗り降りのときに、足腰を鍛える。さらに、揺られることによって、身体が運動をする。

また、サウナなどもよいでしょう。とくに、温冷浴がよい。皮膚を丈夫にして、グルミューを正常化してくれる。したがって、バスに乗って、スーパー銭湯などに行くのも一つの方法。ゆったりとしていて、気分転換にもなる。

いちばんいけないのは、部屋に閉じこもって、何もしないこと。日中に身体を動かすことが少ないと、睡眠も浅くなってしまう。いきおい、体調を崩して生活習慣病を招いてしまうからです。そんなことが、わかってきました。
老いたらば、踊躍歓喜や抃舞少なし。


還暦を過ぎたころから、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)や抃舞(べんぶ)するようなことが少なくなった。せいぜい「しめしめとほくそ笑むくらい」が多い。もしかしたら、感情が鈍くなってしまったためであろうか。

『歎異抄』第九条に、「念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ、おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。」とある。

抃舞の「抃」は、「卞」(ぼくのと)から来たらしい。卜部(うらべ)は字の形から「ぼくぶ」である。いずれにしても難しい字であるが、喜びのあまり手を打って踊ったりすることは少なくなった。親鸞(1173~1262)や、絵伝で見た一遍上人(1239~1289)のころには、多くあったことかもしれない。
考えが変わる成長、こはだ・このしろ。


かなり前に自分が書いた文章を見ると、考えていたことが現在とは異なる。つまり、その後に成長をしたことになろう。よく、知人に「前に言ったことと違うじゃないか?」などと言われる。

ころころと意見が変わるわけではなく、思索が成長した結果、より大きな範囲で対象を捉えることができるようになった場合が多い。

成長魚というのがある。こはだ・このしろなどもそうだ。こはだ(小鰭)はニシン目ニシン科の海水魚。このしろの中くらいの大きさのもので、鮨(すし)などにする。このしろ(魚へんに祭、または鮗)は全長25センチくらいのもの。体は紡錘形で、背側が青色で数列の黒点が並び、肩部に黒斑が一つ。思想も、成長魚のように、変化をしていくものだと思えばよい。
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