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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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スパイダー・ソリティアやって、脳を鍛える。


デスクトップとノートパソコン両方に、Windows 7 Home Premiumが入っていて、スタートをクリックするとゲームもある。その中のスパイダー・ソリティアは老化予防にもってこいのゲームなので、私はときどきやってみる。

ちょっと疲れたときの気分転換にもよい。なるべく素早くカードを移動させる。もたもたしていては、いけない。シャッ・シャッと動かしていく。

もしもカードの移動ができないと思って迷ったときは、ゲームのヒントをやってみる。気がつかなかった意外なところがあったりもする。しかし、意味のない移動まで教えてくれるので、あまり中(あ)てにはならない。したがって可能な限り、自分自身の考えで移動を続けなければならない。

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ひっそりと暮らす日々には安らぎがある。


還暦を過ぎたころから、あまり交際をしなくなった。大仏・大観音を探したり、魚籃観音を訪ねたりすることはあるが、知人たちと会うことは少なくなった。親しかった人たちが、だいぶ亡くなったことも原因である。

いきおい生活は、何となくひっそりと暮らす日々になった。つまり、あまり人間関係がなくなったのである。すると、不思議なことに心に安らぎがやってきた。

わかったことは、対人関係には煩わしいことも含んでいることである。つまり、一人であれば疎(うと)ましさがなくなるのである。だから、昔から出家したり、山にこもったりするのであろう。西行も娘を縁側から蹴落とし、そのまま出家したという。何が、そのような行動をもたらす原因となったのであろうか。
細胞やミトコンドリア、私の一部。


私が、皮膚で囲まれた一連の部分という概念は甘いだろう。外管・内管などと言える部分を中にもっているからである。例えば、口腔から肛門までは外管、毛穴は内管である。さらに、細胞やミトコンドリアのことを考えると、ヒトという種の概念が、地球全体から宇宙にまで広がっていくのではないか。

細胞は、生物を構成する形態上の基本単位。真核細胞では核があり核膜で細胞質とに分けられ、その細胞質は細胞膜でおおわれている。さらに、細胞質中にはミトコンドリアなどがいる。だから、職場・地域などを単位にする党の設けた末端組織を細胞などと言うこともある。

ミトコンドリアは(mitochondria)はギリシャ語、糸・粒の合成語。真核生物の細胞質中に存在する糸状の小器官。内外二重の膜に包まれて、呼吸およびエネルギー生成の場となる。細胞の核とは別に、DNA(デオキシリボ核酸)をもっていて、独自の分裂により増殖をする。糸粒体・糸状体・コンドリオソームなどとも言う。
つらつらと考えたとき、私は何か?


だいぶ以前から、まったく奇妙なことを考え始めた。私と言うものの範囲が、わからないのである。

ふつう、皮膚に囲まれた一連の部分を身体と考える。しかし、胃もたれによる不消化になって、気づいたこと。最近はちょっと少し多く食べると消化するのではなく、何となく身体のほうが消化される感じ。何ともだるく、精神が溶けてしまうような感覚なのである。そこで、食後は三十分ぐらい横になる。すると、ずいぶん楽だ。

そういえば、人間はトポロジー的に考えると薄い皮の袋で閉ざされた一つの空間。つまり、浮き輪やドーナットのような概念の形状である。したがって、胃の中といえども元来は体外なのである。そのまん中の体外の部分が内側になって、消化器官として高度に発達をしただけである。さらに独立した細胞やミトコンドリアなどは、どうであろうか。
捨てること意外に至難、貯めることより。


最近になってわかったことだが、身の回りのものを捨てることは、貯めるよりかなり難しい。若い時代に、せっせと貯め込んだたものを一緒くたにして捨てるには、強い意志が必要。品物によっては、何とも別れがたい気持ちになるものもある。

老いてくると、ものを多く持たないのがよいのではないか。必要な最小限のもので、日々事足りるようにするのが好ましい。まして、趣味や道楽で骨董品を集めるなど、私には性が合わない。

しかし、そんなことを言うと追求をされることがある。それは、ホームページやこのブログである。せっせと下らない内容を増やしている。そんなことをやめてしまえばよいのではあるが、仲間同士の意地もあって急にはやめれない。つまり、文章は減らずに増えているのである。
少しでも、できる間(あいだ)に努力をしよう。


元気なうちに、仕事や勉強、そして何かをしておこう。とくにパソコンを使った作業は、あまり長くは続けられないような気がする。なぜならば、目の調子がすでによくないからである。

足腰の心配もあるが、車椅子になっても何とかパソコンはできるのではないだろうか。しかし、そんなことよりも脳のことが心配だ。つまり、最近になって度忘れが多いので、もしかしたら自分も恍惚の人になっちゃうんじゃないかという恐れがある。

十年くらいの先輩を見ると、何となく記憶力が悪くなった人が多い。中には、矍鑠(かくしゃく)としている人もいることはいるが、たいがい少しボケていて、気力もあまりなくなっているようだ。喜寿(七十七歳)や傘寿(八十歳)ともなると、仕方がないことかもしれない。
もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


最近になって、なぜかかなり過去に行った場所に何となくなつかしさを感じ、もう一度そこへ行ってみたいなどと考えることがある。帰趨本能とでもいうのだろうか、また犯罪者が現場に戻ってくる心境などと同じかもしれない。

とくに悪いことをした場所ではないが、それでも記憶に鮮やかに残っていて、それが引き寄せるみたいである。しかし、思い出そうとしてもどこだったかを忘れてしまった場合、つまりどこかわからない場所が多い。また、すでにない場所もある。開発などで、すっかり変わってしまったところ。里山などであったところなどは、もはやそこにはない。

記憶と言うのは不思議なもので、ない場所をとくになつかしく思うようである。それは、自分自身の心の中にだけある遺物とでもいえようか。
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