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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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楽しみはバスを乗り継ぎ散歩するとき。


今までは、バスをあまり利用しなかった。それが、この夏からシルバーパスを持ったことと、長らく足の膝を痛めてから、大いに考えが変った。歩く距離を少なくして遠くまで行くには、バスが手軽で便利だからである。

費用がかからないことと、そのために小銭を持つ必要がなかったり、運賃を払う際の煩わしさがなくなったことが大きなメリット。だから、気軽にバスを利用できるようになった。

その範囲は、いちおう東京都内ということになっている。したがって、他県に行くときには都合が悪い。その区間の運賃を清算すればよいのだが、それも面倒である。そこで、あきる野市の五日市方面とか、町田市などをプチさん(プティ散策)の範囲とする。いきおい、今までに行かなかったところの訪問をする楽しみが実現できる。ありがたいことである。


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いつまでも健康であるなどとは無意味。


私は、いつまでも健康でありたいと考える。しかし、そんなことは無意味であろう。加齢とともに身体の機能が失われていくから、どだいムリなことだ。自動車などが古くなった場合の状態と、似たようなことが人体にも言えるのではないか。

若いうちは疾病に対しても回復力があるが、老いてくると慢性になったり、悪化をしていく。それは、仕方のないことである。

だから、なるべく悪化をしないようにする努力や注意が必要。少なくとも現状を維持する方法を心がけることである。そのためには、食生活と生活習慣を常に見直すのがよい。食い改めるのに遅いことはないし、生活習慣を改めるのは今日からでもできる。つまり、考え方を今までと変える必要があるのかもしれない。
次々と巡ってみたい、歩けるうちは。


ここのところ、神社仏閣巡りをしている。とくに信心をしているというわけではない。そんなことをして何になるのかと言う人がいるが、私は何となく健康によいと考えるし、心が和むからである。趣味や習慣は人生観の問題で、自分自身が納得すればそれでよいだろう。

シルバーパスが利用できるようになってからは、バスを利用することが多い。今まではバスは不便だと思っていたが、乗ってみるとなかなか便利である。小銭を用意する煩(わずら)わしさもないし、歩くときの基点をバス停にもっていけるからである。

ほとんど行ったことのない土地に行くと、見知らぬ場所でありながら、何となくなつかしく感じることがある。デジャビュったり、不思議に初々(ういうい)しい気持ちになったりするから不思議でもある。そんな楽しみがあるから、歩けるうちは次々とプチさん(プティ散策)の巡り歩きをしてみたい。
健康であれば幸福、言うことはなし。


還暦を過ぎたころから、何となく身体の調子が悪いことが多い。気分のよい日が、めっきり少なくなった。仕方のないことかもしれないが、それでも何とかプチさん(プティ散策)に行く。

すると、やがて気分が晴れてくる。現在どうにか歩けるのも、ありがたいことである。そのうちに、寝たきりになったり、歩けなくなってしまうかもしれない。他人を見ていると、そういうケースが多いからである。

とにかく外出ができるのは、かろうじて健康だからであろう。そんな状態ではあるが、まずまず幸福である。行けるうちに、あちこちを歩いておきたいと思う。あまり遠くへ行きたいなどとは考えないが、近くでもまだ知らないところや再発見できる場所がある。そんなところを歩いているときは、幸福で何も言うことはない。
雨の日はなすべくもなく、部屋で地図見る。


雨が降ったり、冬の雪の日などはプチさん(プティ散策)ができない。そこで、部屋にこもって地図などを見ている。それも、楽しみの一つ。

地図は市役所や観光協会などでもらった行政地図や案内書など。いずれも折りたたんだ紙面になっている。むろん、その範囲しか見ることができない。縮尺も決まっている。

そこで、パソコンを起動してからグーグルやヤフーの地図を見ることになる。また、バス協会の案内用路線図なども見る。地図上に、バス停が記述されていて、バスを利用するときには必携。また、パソコンでは航空写真も見れる。縮尺も調節できる。さらによいことは、ドラッグをすることによって、どこまでも見ていける。そんなことをしていると、いつまでも飽きない。
膝痛を何とかだまして、プチさんをする。


膝痛は、「しつつう」とでも読むのだろうか。私は、いつも「ひざいた」でよいと思っている。それはともかく、最近になってから私にも大きな問題になった。やはり、関節の軟骨が磨り減ってしまったのかもしれない。

しかし、それでもプチさん(プティ散策)をする。歩いていて痛くなったら、ムリをしないで最寄のバス停で待って、バスに乗る。したがって、そのようなことができる場所を選ぶようになった。

そして、ちょっと疲れて聖蹟桜ヶ丘に戻ってくる。腹も大いに減っているので、吉野家で豚丼と中瓶ビールを注文して平らげ、ミスドであまり甘くない種類のドーナット二つとブレンドコーヒーをプレーンで二杯飲む。そんな単純な毎日ではあるが、私にとっては至福のきわみである。
自殺では解決しない生きる苦しみ。


ここのところ自殺者が急激に増えている。人生に疲れてしまったり、借金に首が回らなくなって、自分自身で命を絶ってしまう。そのことによって、苦しさを逃れようとするらしい。

しかし、死んでしまえば苦しさがなくなるのだろうか。死ねば脳が機能をしなくなってしまうから、何も感じないと言う意見が多い。それでは喜怒哀楽などの感情は、すべて脳で作られるものだろうか。

私は、自殺をしても苦しさ自体からは逃れられないような気がしてならない。なぜならば、確かに脳が感じるのだけれども、それ以外に絶対的な受容体があって、生死にかかわらず感じ続けるのではないかと思うからだ。脳のほかに、感覚や意思などをコントロールする仕組みが人体の外にあるのではないだろうか。何となく、そう思うのだが……
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