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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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雨の日は、ファイルスキャンを確かめてみる。


だいぶ以前に「雨の日は、メンテナンスを終日(ひねもす)したり。」という新句(十九音)を作った。そのときは、「ハードディスク内の整理とバックアップ」をすると書いた。

しかし、最近になって悪質なウイルスが急速に増えたので、ときどきハードディスクの全域検査をしなければならない。それには、かなりの時間がかかる。全域をシーケンシャルにするのだから、仕方がないのかもしれない。

先日のスキャンでは、Cドライブに約77000のファイル、Dドライブに約60000のファイルがあった。したがって、かなりの時間がかかる。この作業は、何となく泥縄(どろなわ)式で生産性が低い。まったく問題がない場合が多いのであるが、身体の健康と同じくときには精密検査をすることも必要だと考えて、行っている次第。
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少しずつ書き足してゆく、プチさんの記事。


あちこちに行って、デジカメ写真を撮ったりする。そして、それをホームページの記事にまとめる。そんなことも、ここのところ楽しみの一つである。

しかし、最近になってプチさん(プティ散策)の範囲が狭くなってきた。以前は10キロメートルくらい歩いたが、足を痛めてからは3キロメートルくらいがいいところ。

そんなわけで、いっぺんに計画として考えていたすべてを回れない。そこで、何回かに分けて歩く。それを前回に行ったところに追加をする。すると、前に気付かなかったことがわかったり、間違いがあったことを知る。そんな小さな発見でも、プチさん(プティ散策)の大きな楽しみとなる。
晴れた日はプチさん、雨は部屋にて整理。


晴れた日は、たいがいプチさん(プティ散策)をする。あらかじめ行く場所を決めておいて、デジカメをもって出かける。あちこちを写してきて、帰ってから整理をする。その日のうちに整理をしないと、後で何をどこで写したかがわからなくなってしまうことがあるからだ。

しかし、雨が降ったら出かけられない。むろん、冬の雪の日なども部屋に閉じ込められる。そんなときは、地図を見たり、いままでのプチさん(プティ散策)ページをパソコンで見たりする。

そのようなことをしていると、行き忘れたところがあることに気がつく。それはそのときに気がつかなかった場所と、疲れちゃったりして計画をやめたところなど。それをメモしておいて、次回に改めて行ってみたりする。そんなことも、整理をするメリットであろう。
神社仏閣、歩けるうちに参拝したい。


足がじょうぶなうちに、少しでも多くのところへ行ってみたいと思う。やがて歩けなくなるのは、日を見るよりも明らか。いたしかたないことだ。身体が、まだしっかりしているうちに、できることはしておきたい。

そんなわけで、神社仏閣を回っている。しかし、正直言うとご利益(りやく)を願っているわけではない。むろん私は参拝のときに、お賽銭を差し上げる。それは、かねてよりの習慣だからです。

本当のことを言うと、神社仏閣を参拝して人生が変るなどとは思っていない。ただ、あちこちを歩くことによって身体の健康が保てることと、何となく心が落ち着くのである。考えてみると、神社や仏閣が現在でも多く存在するということ自体に、驚きとともに何らかの理由があるのではないかと思うからだ。
衰えた足をいたわりプチさんをする。


ここのところ、めっきり足が弱ったみたい。それどころか、ときどき歩いていて膝のあたりが痛くなる。おそらく、関節がすり減ってしまったのだろう。大好きなプチさん(プティ散策)にも、変化をもたらした。

そんなわけで、あまり長距離を歩くわけにはいかない。かつてのように10キロメートルくらい何でもなかったことが不思議である。

そこで、無理をしないことにした。バスを大いに利用するのだ。神社や仏閣を回るときにも件数を減らして、歩く距離を少なくする。また、階段はなるべく避ける。高いところにある神社は、下で参拝をする。本殿が見えなくても、かまわない。駅の階段なども、できたら下りはエレベータやエスカレータを利用。最近は、駅にも設備が増えたので順番を待つ気長さがあれば、何とかなるのである。
飽きちゃって面倒くさくなったら終わり。


何事も情熱をもって続けている間が、素晴らしい日々である。しかし、やがてマンネリ化して飽きてしまう。すると、つい面倒くさくなって考えることや作業を中止しがち。人生において、そんなことではダメだ。

テンポが遅くなるのは仕方がないが、停止をしたり、放棄してしまうのはいけない。面倒くさくなることもあるだろうが、それでも何とか続けていこう。

旧約聖書の『伝道の書』に「日の下に新しいものはない」というようなくだりがあるが、それは考え方や見かたの問題。私は、日々新しいことの多い現実に驚いている。自分自身が変化をしているからか、相対的には世の中が新しくなっていくようだ。そんな中で飽きちゃうのは、人生に対して不真面目な証拠ではないだろうか。
空(くう)という無為概念にとらわれており。


「空」(くう)というのは「何もない」ことではない、と思う。私が考えているのは、現象のすべてである。したがって、人間は死んでしまうと何もなくなるのではなく、その空に溶け込むのだと思う。

「死」は単に「空」に含まれる一つの状態で、それをふつう別の次元の概念と考える。ものごとを知らなかったり、包括される概念を認識しなかったために生じる無意味な錯覚なのである。

楊貴妃だったか、誰だったか忘れたが、宮廷に来るときに大いに嘆き悲しんだということだ。しかし、おいしいものを食べたり、楽しかったりしたので、自分が悲しんだことを後悔したという。スエーデンボルグやパスカル、そして源信などを読むと、「死」についても同じことが言えるのではないか。
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