rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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地図にあり、現地にないと、探し求める。
まず、地図を見る。そして、次に回るコースのスケジュールを作る。地図は、市役所や観光協会などで入手したもの。しかし、スケールが小さいために、記載されていない場所も多い。
そこで、グーグルやヤフーの地図で調べる。倍率を変更したり、航空写真を見ることもできるから便利。また画面をドラッグすることによって、見る場所を移動させながら続けていくこともできる。
地図に書いてあっても、現地ではなかなか見つからないことがある。例えば、ない寺などだ。吉祥寺や多摩市の連光寺のように、名称だけで存在しない。また、存在しても仮小屋のようなところもあった。八王子で言えば、金蔵寺である。さらに、その場所にないこともある。真照寺の場合は、1キロメートルも北に引っ越していて、なかなか場所がわからなかった。
まず、地図を見る。そして、次に回るコースのスケジュールを作る。地図は、市役所や観光協会などで入手したもの。しかし、スケールが小さいために、記載されていない場所も多い。
そこで、グーグルやヤフーの地図で調べる。倍率を変更したり、航空写真を見ることもできるから便利。また画面をドラッグすることによって、見る場所を移動させながら続けていくこともできる。
地図に書いてあっても、現地ではなかなか見つからないことがある。例えば、ない寺などだ。吉祥寺や多摩市の連光寺のように、名称だけで存在しない。また、存在しても仮小屋のようなところもあった。八王子で言えば、金蔵寺である。さらに、その場所にないこともある。真照寺の場合は、1キロメートルも北に引っ越していて、なかなか場所がわからなかった。
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デジカメの写真は、サイズ小さく保存。
私のデジカメは、ふつう2272×1704ピクセルのJPGファイルで、一枚が保存される。ほんとうは大きいままのほうがよいのだが、容量の関係で加工・縮小してホームページに移す。大きいままだと、多くの枚数が保存できないのだ。
加工は周囲の不要な部分を取り除くトリミング、それに縦横の変換や斜めになったものを水平ラインに戻したりする。場合によっては、遠近補正ツールで縦横の角度を修正することもある。
そして、400×300(横長)または300×400(縦長)の写真にする。説明文などは、文字や図形がわかる範囲で縮小をする。読めなければ、意味がないからである。そのようにすると、かなりの枚数がホームページエリアに入る。
私のデジカメは、ふつう2272×1704ピクセルのJPGファイルで、一枚が保存される。ほんとうは大きいままのほうがよいのだが、容量の関係で加工・縮小してホームページに移す。大きいままだと、多くの枚数が保存できないのだ。
加工は周囲の不要な部分を取り除くトリミング、それに縦横の変換や斜めになったものを水平ラインに戻したりする。場合によっては、遠近補正ツールで縦横の角度を修正することもある。
そして、400×300(横長)または300×400(縦長)の写真にする。説明文などは、文字や図形がわかる範囲で縮小をする。読めなければ、意味がないからである。そのようにすると、かなりの枚数がホームページエリアに入る。
話には三つのタイプ、いずれがよいか?
二人で話をする場合、ふつう三つのタイプが考えられる。つまり、
(1) 自分が話し、相手が聞く。
(2) 互いに同程度、話をする。
(3) 相手が話し、自分が聞く。
(1)の場合は、キリがなくなってしまう。相手がうんざりしてしまうことも、かなりあるでしょう。むしろ、(3)のように聞き側に回ったほうがよいかもしれません。ただし、ときどき質問をするのがよい。
長続きするのは、(2)が好ましいようです。一方的に口数が多いのは、ともすると「病は口から入り、災いは口から出る」の後段のようになってしまうので、注意が必要。そうではありませんか。
二人で話をする場合、ふつう三つのタイプが考えられる。つまり、
(1) 自分が話し、相手が聞く。
(2) 互いに同程度、話をする。
(3) 相手が話し、自分が聞く。
(1)の場合は、キリがなくなってしまう。相手がうんざりしてしまうことも、かなりあるでしょう。むしろ、(3)のように聞き側に回ったほうがよいかもしれません。ただし、ときどき質問をするのがよい。
長続きするのは、(2)が好ましいようです。一方的に口数が多いのは、ともすると「病は口から入り、災いは口から出る」の後段のようになってしまうので、注意が必要。そうではありませんか。
老いてゆく、その寂しさに耐える術なし。
古希を過ぎたころから、何となく「老いてゆく」ことが心細く、寂しいことに感じ始めた。そして、それを忘れようとしても、なかなかムリである。なぜそのような気持ちになったかを考えてみると、おそらく病(やまい)と死が、後に残ってしまった人生だからであろう。
まったく生老病死(しょうろうびょうし)の「老」の先には「病」があって、さらに「死」が残っている。そんな状態で実際には何もできないことが、寂しいのかもしれない。
つまり、もはや対策がないのである。だからその寂しさに耐える術や方法も見つからない。ただ、対策のない傾向に、じっと我慢をするしかない。そんなことを考えるようになったのである。老いてゆくのは、実につらいことではないだろうか。
古希を過ぎたころから、何となく「老いてゆく」ことが心細く、寂しいことに感じ始めた。そして、それを忘れようとしても、なかなかムリである。なぜそのような気持ちになったかを考えてみると、おそらく病(やまい)と死が、後に残ってしまった人生だからであろう。
まったく生老病死(しょうろうびょうし)の「老」の先には「病」があって、さらに「死」が残っている。そんな状態で実際には何もできないことが、寂しいのかもしれない。
つまり、もはや対策がないのである。だからその寂しさに耐える術や方法も見つからない。ただ、対策のない傾向に、じっと我慢をするしかない。そんなことを考えるようになったのである。老いてゆくのは、実につらいことではないだろうか。
生きている証(あかし)としての五七七。
この五七七は、新句(十九音)という形式で綴る「生きている証明」でもある。したがって、短詩形としての技巧などは必要ない。俳句や短歌などよりも作りやすいし、内容が舌足らずや下手でもかまわない。
できたら一日に少なくとも一作品、つまり十九音の記録を残して欲しい。文学作品ではないから、多少の意味不明があっても、自分自身でわかればよいのである。
そんなわけで、メモや覚えとしても利用できる。むろん日記の代わりにもなるであろう。日々何らかの記録を残すことで、自分自身の生きている証明にもなる。もしも日々生きがいを感じられるほどに、その作品がなったら、とても素晴らしいことだと思う。
この五七七は、新句(十九音)という形式で綴る「生きている証明」でもある。したがって、短詩形としての技巧などは必要ない。俳句や短歌などよりも作りやすいし、内容が舌足らずや下手でもかまわない。
できたら一日に少なくとも一作品、つまり十九音の記録を残して欲しい。文学作品ではないから、多少の意味不明があっても、自分自身でわかればよいのである。
そんなわけで、メモや覚えとしても利用できる。むろん日記の代わりにもなるであろう。日々何らかの記録を残すことで、自分自身の生きている証明にもなる。もしも日々生きがいを感じられるほどに、その作品がなったら、とても素晴らしいことだと思う。
紙とペン、そしてパソコンあれば幸せ。
不要になった裏紙に、まずボールペンでメモをする。そして、それをもとにしてパソコンにインプット。そのときの形式は、五七七だ。つまり、私なりに考えた新句(十九音)形式にする。
ざっとインプットしておいてから、推敲や校正というほどではないが、少しずつ文を育てる。そのこと自体も、また楽しみである。なぜならば、考えがまとまるから。
なぜ新句(十九音)かという理由。長編小説などは、完成させるために大変な努力が必要。また短歌や俳句なども、それなりの基礎がないとなかなかできない。しかし、五七七ならば何とかなる。細かい規約がほとんどないからだ。そんなわけで、後で「記憶の断片」とするような内容のメモや記録を残すのに適しているのではないだろうか。そして、思い出を残す幸せがある。
不要になった裏紙に、まずボールペンでメモをする。そして、それをもとにしてパソコンにインプット。そのときの形式は、五七七だ。つまり、私なりに考えた新句(十九音)形式にする。
ざっとインプットしておいてから、推敲や校正というほどではないが、少しずつ文を育てる。そのこと自体も、また楽しみである。なぜならば、考えがまとまるから。
なぜ新句(十九音)かという理由。長編小説などは、完成させるために大変な努力が必要。また短歌や俳句なども、それなりの基礎がないとなかなかできない。しかし、五七七ならば何とかなる。細かい規約がほとんどないからだ。そんなわけで、後で「記憶の断片」とするような内容のメモや記録を残すのに適しているのではないだろうか。そして、思い出を残す幸せがある。
オッカムの剃刀なのか、死後の命は?
「オッカムの剃刀(かみそり)」という言葉がある。それは「ある事柄を説明するために、あまり多くのことを仮定してはいけない」ということ。つまり、仮定が多すぎて「ああでもない、こうでもない」はダメなのである。
ある存在は、必然性なしに増加されてはならない。より広範囲の事象を説明するためには、より単純な理論のほうがよい。それでは直感的に納得できることは、どうであろうかと私は思う。
オッカムは、十四世紀スコラ哲学の神学者。フランシスコ会で会則の解釈をめぐり、やがてローマ教皇ヨハネス二十二世と対立、異端審問のため教皇庁へ召還された。私は、死後の命について、仮説が多すぎるように思う。
「オッカムの剃刀(かみそり)」という言葉がある。それは「ある事柄を説明するために、あまり多くのことを仮定してはいけない」ということ。つまり、仮定が多すぎて「ああでもない、こうでもない」はダメなのである。
ある存在は、必然性なしに増加されてはならない。より広範囲の事象を説明するためには、より単純な理論のほうがよい。それでは直感的に納得できることは、どうであろうかと私は思う。
オッカムは、十四世紀スコラ哲学の神学者。フランシスコ会で会則の解釈をめぐり、やがてローマ教皇ヨハネス二十二世と対立、異端審問のため教皇庁へ召還された。私は、死後の命について、仮説が多すぎるように思う。