rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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久々に、おいしい焼き芋、きんとんの味。
妻が働いている会社の秘書さんから、大きな焼き芋をいただいた。おそらく、サツマイモを直火(じかび)の灰の中で、ゆっくり焼いたのではないだろうか。もしかしたら、お母上が時間をかけて焼かれたのではないかと思う。焦(こ)げてしまわないようにする手数が、大変だったでしょう。
食べてみたら中まで均一によく焼けていて、クリームというか、きんとん状になっている。とてもおいしい。ちょっと、栗きんとんの味がする。このような味のおいしいサツマイモを食べたことは、最近になってあまりない。
きんとんは「金団」とも書いて、 サツマイモなどで作った餡(あん)に栗などを混ぜてつくるが、いただいた焼き芋はそのままで栗きんとんの味がしたから、驚いてしまった。
妻が働いている会社の秘書さんから、大きな焼き芋をいただいた。おそらく、サツマイモを直火(じかび)の灰の中で、ゆっくり焼いたのではないだろうか。もしかしたら、お母上が時間をかけて焼かれたのではないかと思う。焦(こ)げてしまわないようにする手数が、大変だったでしょう。
食べてみたら中まで均一によく焼けていて、クリームというか、きんとん状になっている。とてもおいしい。ちょっと、栗きんとんの味がする。このような味のおいしいサツマイモを食べたことは、最近になってあまりない。
きんとんは「金団」とも書いて、 サツマイモなどで作った餡(あん)に栗などを混ぜてつくるが、いただいた焼き芋はそのままで栗きんとんの味がしたから、驚いてしまった。
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老人は、あつかましくて、くさいからいや。
老人は、のろのろしていてあつかましい人が多い。そして、何となく臭(くさ)い臭(にお)いのする人がいる。だから、「いやだなぁ~」などと考えていたのが、つい数年前。それが、どうしたことか気付いたときには、自分自身が老人になっていた。そこで、何とかしなければならないと切実に思った次第。
まず、もたもたしないように心がける。バスの乗り降りなども前の人に続き、途切れないように努力する。シルバーパスなので、現金の支払いがないからありがたい。食堂などでは小銭を用意して、もたつかないようにする。
また、口が臭くなってはいけないので、口腔内の清潔を心がける。歯周病になるので、二週間に一度は歯科医に通う。そんなことをしているのだが。
老人は、のろのろしていてあつかましい人が多い。そして、何となく臭(くさ)い臭(にお)いのする人がいる。だから、「いやだなぁ~」などと考えていたのが、つい数年前。それが、どうしたことか気付いたときには、自分自身が老人になっていた。そこで、何とかしなければならないと切実に思った次第。
まず、もたもたしないように心がける。バスの乗り降りなども前の人に続き、途切れないように努力する。シルバーパスなので、現金の支払いがないからありがたい。食堂などでは小銭を用意して、もたつかないようにする。
また、口が臭くなってはいけないので、口腔内の清潔を心がける。歯周病になるので、二週間に一度は歯科医に通う。そんなことをしているのだが。
本棚の奥に忘れた、なつかしい本。
本との出合いも、人との出会いに何となく似ている。しばらく親しく付き合った人が、病気や引越しのために、会わなくなったりする。そして、そのまま久しくご無沙汰になってしまう。
私の本棚は、ミリオンラックというのが五つある。しかし、すべての本が並べきれないので、小型の本は二段にしてある。二段というのは、並べた前にもう一列を並べる。つまり、二倍の本を格納するため。
そうすると、奥のほうにある本は、背に書いてあるタイトルが見えない。前の列の本をどかさないと、よくわからないのである。だいたいは覚えているが、中には忘れてしまったものもある。そんな忘れていたなつかしい本が出てくることがある。そして、かつて親しかった人と久々に会うような気持ちになる。
本との出合いも、人との出会いに何となく似ている。しばらく親しく付き合った人が、病気や引越しのために、会わなくなったりする。そして、そのまま久しくご無沙汰になってしまう。
私の本棚は、ミリオンラックというのが五つある。しかし、すべての本が並べきれないので、小型の本は二段にしてある。二段というのは、並べた前にもう一列を並べる。つまり、二倍の本を格納するため。
そうすると、奥のほうにある本は、背に書いてあるタイトルが見えない。前の列の本をどかさないと、よくわからないのである。だいたいは覚えているが、中には忘れてしまったものもある。そんな忘れていたなつかしい本が出てくることがある。そして、かつて親しかった人と久々に会うような気持ちになる。
源信の地獄の記述、恐ろしきかな。
源信の『往生要集』には、実に詳しく地獄の光景が描かれている。極楽ではなく地獄から書かれているので、読み始めると同時にビビッてしまう。これでもか、これでもかというように、地獄の様子が続いているのだ。
つくづくと死後の世界が恐ろしくなってしまう。しかし、その記述は源信によるまったくの創作ではない。源信は九百冊以上の文献から抽出しているので、中には真実も多く含まれているのであろう。
しかし、芥川龍之介は『邪宗門』の中で、あまり源信を高く評価していないように思う。もっとも、未完の形でふっ切れているから、もしかしたら違うかもしれない。また、源信が『往生要集』を中国に送ったというが、中国内での反応はまったく残っていない。国内に止まらず外国にも理解者を求めた源信の意気込みも、空しく終わってしまったようだ。
源信の『往生要集』には、実に詳しく地獄の光景が描かれている。極楽ではなく地獄から書かれているので、読み始めると同時にビビッてしまう。これでもか、これでもかというように、地獄の様子が続いているのだ。
つくづくと死後の世界が恐ろしくなってしまう。しかし、その記述は源信によるまったくの創作ではない。源信は九百冊以上の文献から抽出しているので、中には真実も多く含まれているのであろう。
しかし、芥川龍之介は『邪宗門』の中で、あまり源信を高く評価していないように思う。もっとも、未完の形でふっ切れているから、もしかしたら違うかもしれない。また、源信が『往生要集』を中国に送ったというが、中国内での反応はまったく残っていない。国内に止まらず外国にも理解者を求めた源信の意気込みも、空しく終わってしまったようだ。
源信と日蓮の言う「地獄と極楽」。
源信(卜部姓、恵心僧都、横川僧都 942~1017)は、平安中期の天台宗の僧。比叡山で学び、横川(よかわ)の恵心院で著述に専念した。『往生要集』を著して浄土教の基礎を築いた。九百冊以上の文献から引用をして、最初に地獄の描写が生々しく書かれている。
日蓮(立正大師 1222~1282)は、鎌倉時代の僧で日蓮宗の開祖。出家してから比叡山などで修学。建長五年(1253)「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経信仰を説く。他宗を攻撃したため圧迫を受け、「立正安国論」の筆禍で伊豆に流された。許されてからも他宗への攻撃は激しく、今度は佐渡に。赦免後は、身延山に隠栖した。「地獄も極楽も、実は私たちの身体の中にある」と書き残している。
いずれの記述も、何となく私には納得できる。
源信(卜部姓、恵心僧都、横川僧都 942~1017)は、平安中期の天台宗の僧。比叡山で学び、横川(よかわ)の恵心院で著述に専念した。『往生要集』を著して浄土教の基礎を築いた。九百冊以上の文献から引用をして、最初に地獄の描写が生々しく書かれている。
日蓮(立正大師 1222~1282)は、鎌倉時代の僧で日蓮宗の開祖。出家してから比叡山などで修学。建長五年(1253)「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経信仰を説く。他宗を攻撃したため圧迫を受け、「立正安国論」の筆禍で伊豆に流された。許されてからも他宗への攻撃は激しく、今度は佐渡に。赦免後は、身延山に隠栖した。「地獄も極楽も、実は私たちの身体の中にある」と書き残している。
いずれの記述も、何となく私には納得できる。
施無畏印、結びし釈迦に似た招き猫。
普明寺大日堂の釈迦如来坐像は、大日如来の脇侍(きょうじ)ではあるが、右手の肱(ひじ)を曲げ、施無畏印(せむいいん)を結んでいる。おだやかな形であるが、施無畏の功徳を示す印相であり、右手五指をそろえて伸ばし、手のひらを前に向けて、肩の辺りに上げるスタイル。
いっぽう、招き猫にもいろいろあろうが、豪徳寺の招き猫はオーソドックスな形だと思う。その招き猫は大小にかかわらず、右手を上げて掌(てのひら)を前、つまり見ている人のほうに向けている。ちょっと握っているような格好ではあるが、猫が施無畏印を結ぶとは考えにくい。たまたま釈迦と同じ格好にしているのであろうか。
いずれにしても、釈迦も招き猫も私にとっては、ありがたい存在である。そんなわけで、大日堂と豪徳寺は、年に一回以上参拝に行くのである。
普明寺大日堂の釈迦如来坐像は、大日如来の脇侍(きょうじ)ではあるが、右手の肱(ひじ)を曲げ、施無畏印(せむいいん)を結んでいる。おだやかな形であるが、施無畏の功徳を示す印相であり、右手五指をそろえて伸ばし、手のひらを前に向けて、肩の辺りに上げるスタイル。
いっぽう、招き猫にもいろいろあろうが、豪徳寺の招き猫はオーソドックスな形だと思う。その招き猫は大小にかかわらず、右手を上げて掌(てのひら)を前、つまり見ている人のほうに向けている。ちょっと握っているような格好ではあるが、猫が施無畏印を結ぶとは考えにくい。たまたま釈迦と同じ格好にしているのであろうか。
いずれにしても、釈迦も招き猫も私にとっては、ありがたい存在である。そんなわけで、大日堂と豪徳寺は、年に一回以上参拝に行くのである。
人生は成住壊空、空しかるべし。
成住壊空(じょうじゅうえくう)という言葉があります。私たちは、ふつうの状態では、成・住・壊・空を永遠に繰り返すといいます。つまり、
(1) 成(じょう)……元素が集まって一つの生命が始まる(誕生)
(2) 住(じゅう)……生命活動(子どもから大人への成長)
(3) 壊(え)……生命体の終末(老化 → 死)
(4) 空(くう)……生命が空の状態になる(空として宇宙に存在する)
生老病死(しょうろうびょうし)と同じような考え方ですが、最後には空(くう)の状態があるのに注意してください。
生命が一時的に空(くう)の状態になるとは、何とも致し方なく、空(むな)しいことではありませんか。
成住壊空(じょうじゅうえくう)という言葉があります。私たちは、ふつうの状態では、成・住・壊・空を永遠に繰り返すといいます。つまり、
(1) 成(じょう)……元素が集まって一つの生命が始まる(誕生)
(2) 住(じゅう)……生命活動(子どもから大人への成長)
(3) 壊(え)……生命体の終末(老化 → 死)
(4) 空(くう)……生命が空の状態になる(空として宇宙に存在する)
生老病死(しょうろうびょうし)と同じような考え方ですが、最後には空(くう)の状態があるのに注意してください。
生命が一時的に空(くう)の状態になるとは、何とも致し方なく、空(むな)しいことではありませんか。