rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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時間とは飛去のみでなく、タイミングあり。
道元は「時は飛去(ひこ)するとのみ解会(げえ)すべからず」と『正法眼蔵』に書いていたと思う。つまり、時間は去っていくだけではなく、やっても来るのである。それは、経巡(へめぐ)っていると言ったらよい状態ではなかろうか。
『伝道の書』に、「すべてのことには、タイミングがある」と書かれている。何となく空しさを感じる異質の旧約聖書ではあるが、物事に時があるということを執拗に繰り返し述べている。
私は、あまり哲学的なことは知らないが、道元の言ったことや『伝道の書』に書かれていることについて、何となくわかるような気もする。しかし、反面では「時間」そのものに対して大きな疑問を感じる。そもそも存在しない物理量や概念に関して、かまびすしく論議をしているのではないか。
道元は「時は飛去(ひこ)するとのみ解会(げえ)すべからず」と『正法眼蔵』に書いていたと思う。つまり、時間は去っていくだけではなく、やっても来るのである。それは、経巡(へめぐ)っていると言ったらよい状態ではなかろうか。
『伝道の書』に、「すべてのことには、タイミングがある」と書かれている。何となく空しさを感じる異質の旧約聖書ではあるが、物事に時があるということを執拗に繰り返し述べている。
私は、あまり哲学的なことは知らないが、道元の言ったことや『伝道の書』に書かれていることについて、何となくわかるような気もする。しかし、反面では「時間」そのものに対して大きな疑問を感じる。そもそも存在しない物理量や概念に関して、かまびすしく論議をしているのではないか。
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義春と日向子の鳥が、記憶に残る。
かつて読んだ本にあった光景のこと。つげ義春と杉浦日向子の作品である。いずれも鳥の話題であるが、つげ義春のほうは堤防で見た男が鳥に見えた話と調布の鳥屋にアオサギをつれて来るシーン。そして杉浦日向子は釣りをしていて杭にとまる鳥を見るが、帰ると父が死んでいたというようなストーリ。
つげ義春(つげよしはる 本名は柘植 1937~ )は、ちょっと暗い独特なタッチで、不条理な人間社会を描き出す。代表作に『ねじ式』『紅い花』『無能の人』などがある。
杉浦日向子(すぎうらひなこ 本名は鈴木順子 1958~2005)は、江戸風俗の研究家でもある。日本大学鶴ヶ丘高等学校卒業、日本大学芸術学部の美術学科を中退。作品は『百物語(一)・(二)・(三)』など。
かつて読んだ本にあった光景のこと。つげ義春と杉浦日向子の作品である。いずれも鳥の話題であるが、つげ義春のほうは堤防で見た男が鳥に見えた話と調布の鳥屋にアオサギをつれて来るシーン。そして杉浦日向子は釣りをしていて杭にとまる鳥を見るが、帰ると父が死んでいたというようなストーリ。
つげ義春(つげよしはる 本名は柘植 1937~ )は、ちょっと暗い独特なタッチで、不条理な人間社会を描き出す。代表作に『ねじ式』『紅い花』『無能の人』などがある。
杉浦日向子(すぎうらひなこ 本名は鈴木順子 1958~2005)は、江戸風俗の研究家でもある。日本大学鶴ヶ丘高等学校卒業、日本大学芸術学部の美術学科を中退。作品は『百物語(一)・(二)・(三)』など。
その意味を知りたい「おらほ」「ねんも」「ろくせぶ」。
歩いていると、地名などでわからない言葉がある。そういう名前だと思えば、それでよいのであるが、ちょっと考えても由来のわからない場合がある。その故事や言い伝えなどが、命名に関係しているのであろう。
京王線仙川駅の東に「おらほ橋」というのがある。川の橋ではなく、京王線を超える橋の名前らしい。比較的新し作ったバイパス用の跨線橋で、近くには同じ名称のミニバス停がある。
高幡不動尊駅の北東に「ねんも公園」がある。この「ねんも」も何のことだかわからない。しかし、多摩市の関戸にある「ろくせぶ公園」。最初はわからなかったが、この公園には由来を書いた立て札が立っていた。それによると「六畝歩」という広さの単位であって、その公園がその大きさなのである。
歩いていると、地名などでわからない言葉がある。そういう名前だと思えば、それでよいのであるが、ちょっと考えても由来のわからない場合がある。その故事や言い伝えなどが、命名に関係しているのであろう。
京王線仙川駅の東に「おらほ橋」というのがある。川の橋ではなく、京王線を超える橋の名前らしい。比較的新し作ったバイパス用の跨線橋で、近くには同じ名称のミニバス停がある。
高幡不動尊駅の北東に「ねんも公園」がある。この「ねんも」も何のことだかわからない。しかし、多摩市の関戸にある「ろくせぶ公園」。最初はわからなかったが、この公園には由来を書いた立て札が立っていた。それによると「六畝歩」という広さの単位であって、その公園がその大きさなのである。
後悔と嘆きばかりが多い人生。
『東照宮遺訓』(とうしょうぐういくん)には、「人の一生は、重き荷を負うて遠き路を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。」という言葉がある。徳川家康のような立場の人が残したにしては、切実である。
『伝道の書』(コヘレットの書)には、「夢が多いと幻滅も多い。言葉が多いと失う時間も多い。……銀の好きな人は銀をどんなに集めても飽きない。富を好む人は富で得をすることがない。空しいことだ。」とある。
東西の賢者がそんなことを言うのであるから、もう私のようなものは、後悔と嘆きで人生がいっぱいになってしまう。もともと、重荷を背負ったりすることもいやだし、また空しくなるほど富んだりしたことはないが、……
『東照宮遺訓』(とうしょうぐういくん)には、「人の一生は、重き荷を負うて遠き路を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。」という言葉がある。徳川家康のような立場の人が残したにしては、切実である。
『伝道の書』(コヘレットの書)には、「夢が多いと幻滅も多い。言葉が多いと失う時間も多い。……銀の好きな人は銀をどんなに集めても飽きない。富を好む人は富で得をすることがない。空しいことだ。」とある。
東西の賢者がそんなことを言うのであるから、もう私のようなものは、後悔と嘆きで人生がいっぱいになってしまう。もともと、重荷を背負ったりすることもいやだし、また空しくなるほど富んだりしたことはないが、……
『枕草子』『方丈記』『徒然草』の「死」。
『枕草子』には、六段に「扇丸という犬」の死について記述がある。他の段は、あまり文の流れに関係ないと思う。ただ、四六段に「女はおのれを悦ぶ者のためにかほづくりす、士はおのれを知れる人のために死ぬといひたる」というようなくだりがあった。
『徒然草』第三十段には、人が死んだ後のことを書き連ね、最後は墓さえも「その形(かた)だになくなりぬるぞ悲しき。」と結んでいる。
『方丈記』序の後段「朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝ ならひ(習い)、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。」という有名な言葉がある。そして、それは朝顔の露と同じだと達観しているのには恐れ入る。私は、何となく死に対する考え方が、時代によっても異なっているように思う。
『枕草子』には、六段に「扇丸という犬」の死について記述がある。他の段は、あまり文の流れに関係ないと思う。ただ、四六段に「女はおのれを悦ぶ者のためにかほづくりす、士はおのれを知れる人のために死ぬといひたる」というようなくだりがあった。
『徒然草』第三十段には、人が死んだ後のことを書き連ね、最後は墓さえも「その形(かた)だになくなりぬるぞ悲しき。」と結んでいる。
『方丈記』序の後段「朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝ ならひ(習い)、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。」という有名な言葉がある。そして、それは朝顔の露と同じだと達観しているのには恐れ入る。私は、何となく死に対する考え方が、時代によっても異なっているように思う。
世の中に、あっと驚くことが毎日。
テレビや新聞を見ていると、あっと驚くことが多い。それは、皆さんもご存知でしょう。私は、アイ・グーグルで編集をした「Excite世界びっくりニュース」というのを毎日見ている。
そこには、いちいちあげ切れないようなバカバカしい話題があって、意外にも楽しめる。全般的に言えることは、常識が大きく変わってきたのではないかということ。とくに、若い人の短絡的な行動には、恐れ入ってしまう。
おそらく親の躾(しつけ)などが、世界的にも廃(すた)れてきているのだろう。いわゆる歯止めのきかない事件や事故が多いことでも、何となくわかる。もしかしたら、食生活の変化による当然の成り行きかもしれないのだが、……。
テレビや新聞を見ていると、あっと驚くことが多い。それは、皆さんもご存知でしょう。私は、アイ・グーグルで編集をした「Excite世界びっくりニュース」というのを毎日見ている。
そこには、いちいちあげ切れないようなバカバカしい話題があって、意外にも楽しめる。全般的に言えることは、常識が大きく変わってきたのではないかということ。とくに、若い人の短絡的な行動には、恐れ入ってしまう。
おそらく親の躾(しつけ)などが、世界的にも廃(すた)れてきているのだろう。いわゆる歯止めのきかない事件や事故が多いことでも、何となくわかる。もしかしたら、食生活の変化による当然の成り行きかもしれないのだが、……。
有るものを有効にする整理・整頓。
ささいなものであっても使わなかったり、忘れられていたら意味がないだろう。自分が所有しているものをフル活用できる生活がしたいものだ。何かをしようとして、「あれはどこにしまったのかな」などと考え、わからないままに仕方なく別のものを使ったりする。
そんなために、ふだん使わないものでも、どこに何があるかを知っておく必要がある。その確認を定期的にすることが、大切だと思う。目を通すだけのやり方でもよいが、実際には棚卸しのように品物をいったん別の場所に置いて、ふたたびもとの場所に戻す方法がよい。
棚卸しをすると、不要なものが確認できる。数年も使用をしていないものは、おそらく今後も使わないかもしれない。また、簡単に購入できる品物であったならば、処分をしてしまったほうがよいのではないか。
ささいなものであっても使わなかったり、忘れられていたら意味がないだろう。自分が所有しているものをフル活用できる生活がしたいものだ。何かをしようとして、「あれはどこにしまったのかな」などと考え、わからないままに仕方なく別のものを使ったりする。
そんなために、ふだん使わないものでも、どこに何があるかを知っておく必要がある。その確認を定期的にすることが、大切だと思う。目を通すだけのやり方でもよいが、実際には棚卸しのように品物をいったん別の場所に置いて、ふたたびもとの場所に戻す方法がよい。
棚卸しをすると、不要なものが確認できる。数年も使用をしていないものは、おそらく今後も使わないかもしれない。また、簡単に購入できる品物であったならば、処分をしてしまったほうがよいのではないか。