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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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何だろう、「スワルトバトル」「オストアンデル」。


歌になっていたようだが、何でも英語で表現する日本人の愚かさを揶揄したもののようだ。戦争中に、外来語を敵性語として日本語に置き換えたりした反動かもしれない。最近では、わざわざカタカナに置き換えてわかりにくくすることで、何となく価値があるように思わせる。

日本では、日中戦争から第二次世界大戦中にかけて、アメリカやイギリスで使用される英語を「軽佻浮薄」とみなして、精神的に「敵性」にあたるものだとして日本語に置き換え、バックするのを背背(はいはい)と言ったりした。

「スワルトバトル」は、「スワルトバートル」と伸ばして歌っていたが、「座ると場取る」つまりスカートのことである。また、「オストアンデル」は「押すと餡(あん)出る」つまりアンパンのこと。ただし、これらは敵性語とされたものではない。
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イスラムと話し合いするフェデリコ二世。


フェデリコ二世(Federico II 1272~1337)は、シチリア王であった。その頃、シチリアの所有権を巡る争いが続いていた。ナポリ王カルロ一世による和平交渉が行なわれたが、二人の教皇の死によって中断した。さらに、教皇からシチリア攻撃の命令が下り、アラゴンから派遣されていた高官たちの軍隊がフェデリコ討伐軍になるという危機に陥る。しかしフェデリコの奮闘によって、何とか退けることができた。

その後、十字軍によるイスラムとの戦いに引き続き、実戦ではなく話し合いで解決を導いた。宗派の異なる二つの軍隊が、聖戦などと言って、互いに争うことを愚かなことと考えたからである。そして、かなりの時間をかけてイスラム王と信頼関係を築いた。

私は、フェデリコ二世を孤高の王だと思う。
「さくらや」の後に続いて「ビックカメラ」が。


部屋から五分で行ける「さくらや」がなくなってしまって残念だと思っていたら、引き続いて「ビックカメラ」が開店した。売り場の規模は、まったく同じ。

ありがたいのは、さくらやになかったDELLの売り場があるということである。今までは新宿のパルコにあるビックカメラに行ったり、吉祥寺のDELL支店に行ったりして注文をした。しかし、吉祥寺のDELLがなくなってしまったので、困ったなぁと思っていた矢先。

聞くところによると、ビックカメラのほうがさくらやよりも企業の規模が大きいという。ひとまず大丈夫で、やれやれ。パソコンやデジカメに関しては、身近にサービス店や技術的に教えてくれるところがあるほうが安心だからである。
テンペスト、モーツアルトに似ている調べ。


簡単なピアノ練習曲を作ってみた。初めての体験であり、自分が作曲できるかどうかを確かめてみる意味合いもあったからである。いちおう全十二曲の『ピアノ小品集』だ。ところが問題は、その中の「母に抱かれて聞いた歌」と「子守歌」である。

それまでに意識をした覚えはないが、何となく似ているのである。「母に抱かれて聞いた歌」は、ベートーヴェンの「ピアノソナタ17番(作品31第2)ニ短調」(テンペスト)の第3楽章「Allegreetto」。さらに、無窮動(Perpetuum mobile)のような感じまでが似ている始末。

「子守歌」は、モーツアルトの「ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲」の第2楽章。あまり聞いたことのない曲だったので、その旋律を後で聞いたときには、相当なショックを受けたことは事実である。
認知症、歯の喪失と関係がある。


最近になって、認知症やアルツハイマー病になる人が、急増しているらしい。いろいろ原因はあるが、その中で私は歯の喪失に注意をしている。つまり、歯が抜け落ちてしまわないような努力をする。

そのためには、歯周病の根治が第一だ。歯を失ってしまうと、学習することが困難になったり、記憶力が大幅に低下する。それら事実は、ネズミの実験で明らかな結果が出ているという。ヒトの場合も、同じであろう。歯がなくなると、認知症のリスクが高まることは明らか。

どうやら咀嚼をするときの刺激によって、脳の中を流れる血液の量が増えるらしい。そしてその結果、脳が活性化される。したがって、歯を失うと噛まないために脳が次第に衰えて、認知症になりやすい。だから、私は歯周病にならないように細心の注意をしている。
「褒め合ってどうするの!」とも思うことあり。


「お互い褒め合ってどうするの!」と言われそう!(笑) 増井先生のお言葉であるが、確かにそうかもしれない。現代社会では互いに褒めあうか、反対に貶しあう。無関心の場合は、後者である。そんな中で、私は自分の可能性を知りたいと思っているので、自分自身がわかればそれでよい。正直言って、褒められたりするほどの力量はないと思う。

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に「褒められもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい」とあるが、そんな感じである。

菊池寛『好色成道』には、若い僧が高貴な女性に言い寄るが、意を達せないままべた褒めされて、最後は高僧となるいきさつが書かれている。後に天台座主になった覚慶僧正であるが、「虚空蔵菩薩が女性の姿になって、自分の学問を励ましてくれた」と述懐している。
泉布(せんぷ)とは、いったい何を意味するものか?


玉川第二公園の亭(ちん)の横に蹲(つくばい)があった。そして、その蹲には「泉布」(せんぷ)と書かれている。真ん中に「口」の字の手水(ちょうず)鉢の流出部分がある。最初は、「吾唯足知」の類いかと考えたが、泉の旁(つくり)に口が付く文字はないし、布に口偏がついたりはしない。

そこで、口には関係がなく単に「泉布」であると知った。泉布は、貨幣に書かれている文字で、経済が泉の水のように流通することを意味したらしい。泉は金属製の貨幣、布は絹製の貨幣とも言う。

しかし、残念なことに「泉布」貨幣が大いに流通したことの記録はないという。したがって、もしかしたら割符(わりふ)や身分などの証明用硬貨だったのではないかとも考える人がいる。そんな難しい意味の文字を篆書(てんしょ)で、なぜ公園の水出口に書くのだろうか。と、私は思った。
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